海を越えて
見出しは、黒い背景の上で白く光っていた。
『日本のイレギュラー探索者、深層のモンスターを無力化か』
記事によれば、発端は日本の前線基地に駐在していた探索者の1人が投稿した短いSNSの書き込みだった。《今日、第3階層で信じられないものを見た。背中の人が歩いただけで、灰色の個体が頭を擦りつけて伏せた。動画は撮れていない。でも嘘じゃない。》
まだ映像は出ていない。出ているのは、断片的な目撃談だけ。それでも十分だった。海を越えるには。
数時間後、海外の動画投稿サイトには日本の配信者の過去のアーカイブを切り抜いた映像が上がっていた。無断転載だった。再生数は、たちまち300万回を超えた。サムネイルには、黄色いヘルメットをかぶった背中が映っている。英語の字幕が、その背中を指して言う。
《これが“The Back”だ。日本で最も不可解な探索者》 《モンスターが彼の前で道を空ける》 《攻撃しない。吠えない。ただ伏せる》
コメントが、滝のように流れていく。
《待って、これ本当に編集なし?》 《この男、何もしてないのにモンスターが土下座してる》 《あの大きいの、普通なら10秒で死ぬやつだろ》 《彼が歩いてるだけで全員壁に張りついてる。なんだこれ》 《これが日本のトップ探索者?》 《いや、彼はランク外だ。協会が“イレギュラー種別S”に認定しただけ》 《S? SってあのSか?》 《彼の名前はまだ出てない。顔も。みんな“背中の人”って呼んでる》 《背中の人ってダサすぎるだろ。もっとこう……》 《いや、むしろ怖いよ。何もかも伏せる男に名前は要らない》 《日本はいつもそうだ。実力者ほど表に出ない》
コメント欄の熱は、ニュースサイトの更新を追うたびに膨らんでいった。
その夜、海の向こうの大きな迷宮研究機関が、公式アカウントでたった一行だけを投稿した。
「日本の事例について、当機関としても注視している」
たったそれだけが、世界中のタイムラインに静かに滑り込んでいった。
【背中の人】海外でも話題になってるスレ 1【The Back】
1:名無しの探索者 寝て起きたらThe Backとかいう名前つけられてて草
2:名無しの探索者 向こうの切り抜き見たけど字幕が「彼は何もしていない」で笑った。事実すぎる
3:名無しの探索者 合成だろ。協会ぐるみのやらせ。海外まで騙されてて草
4:名無しの探索者 >>3 協会がSに認定した時点でやらせ説は苦しい
5:名無しの探索者 研究機関が「注視している」って一行だけ出したの、あれが一番ぞっとした
6:名無しの探索者 注視(こちらも何も分かっていない)
7:名無しの探索者 海外「S? SってあのSか?」←そうだよ。日本も同じ反応したよ
8:名無しの探索者 顔も名前も住所も分からんのに国際的知名度だけ爆上がりしてるの、配信者としては憧れるわ
9:名無しの探索者 黄色いヘルメットと結束バンド3本で世界デビュー。協会は今すぐ新品を支給しろ
10:名無しの探索者 英語圏のフォーラム、もうThe Backの特定スレ立ってるぞ
11:名無しの探索者 >>10 国内の特定班が2か月かけて無理だったのに?
12:名無しの探索者 隣の配信者のチャンネル、もう「第3階層の動画まだ?」のコメントで埋まってる
◇
夜の前線基地。レンは宿泊エリアのテントの前で、配給の弁当を膝の上に広げ、箸で冷めた白米を突っついていた。ぶかぶかの紺のジャケットは脱いで丸めてあり、黄色いヘルメットがその上でかたんと音を立てる。風が吹くたび、テントの布がばたばたと鳴った。
「レン!」
声がして、ミオが小走りに駆け寄ってくる。小型カメラを胸に抱えたまま、スマホを片手に突き出さんばかりの勢いだ。前髪が風に乱れて、頬が興奮でほんのり赤い。
「ちがうの! あたしじゃないからね! 第3階層の映像、あたしまだ上げてないから!」
「はぁ? なんの話だよ」
「だから、これ。元は基地の誰かの書き込み。あたしの動画じゃないの。そこんとこ、ちゃんとわかっててほしいっていうか」
「知らねえよ。別にお前が上げたって上げてねえって、どうでもいいわ」
「どうでもよくないって。あたしのチャンネル、夕方50万だったのが、もう100万超えてるんだよ? ねえ見てこれ。海外でもバズってる! 英語のコメントとか来てるよ!」
ミオはスマホの画面をレンの鼻先に突き出した。細かい文字がぎっしり並んでいる。レンは箸を口にくわえたまま、げんなりした顔で画面をにらんだ。
「読めねーよ、英語」
「え、ちょっとは読めないの?」
「読めない。つーか、読む気もない」
「もー、せっかく世界が注目してるのに」
ミオは画面を引き戻すと指でスクロールしながら、ふふんと鼻を鳴らす。
「じゃあ訳してあげる。昔の切り抜きが、勝手に海外に流れてるの。えーとね、これ。《“DOGEZA”って何? 英語にないから、そのまま書いてある》」
「英語にねえなら、向こうが悪いだろ」
「で、これは、《彼のマネージャーに連絡を取りたい。誰か知らないか》」
「マネージャーってなんだよ。いねえよ。いたら日当もっと取ってるわ」
「でもその下がね、《いや、むしろ怖いよ。何もかも伏せる男に名前は要らない》」
レンは弁当の蓋を閉じかけて手を止めた。箸の先で、白米をひとつまみ口に運ぶ。味のない米を、ゆっくり噛みながらぼんやりと夜の空を見上げた。
「……名前は要らない、ってなんだよ。俺は要るわ」
ミオはにやにやと笑いながら、スマホを胸の前で抱え直す。
「ねえ、これ、どうする? 今ならあたしのチャンネル、海外の視聴者まで一気に取り込めるかもしんない」
「どうもしねえよ。つか、飯食ってるんだから静かにしろ」
「もー、レンはいつもそうなんだから。世界がね、海の向こうがね、あんたの背中に夢中なんだよ?」
「夢中になってんのはお前らだろ。俺は夢中になってねえし、海の向こうも知らねえ。つかこの弁当、米冷えててまずいんだけど」
「話そらした! いや、別にいいけど」
ミオは笑いながらレンの隣に腰を下ろした。テントの布が風に揺れ、彼女のスマホの画面が暗がりの中で白く光っている。レンは箸を動かしながら、その光を横目に小さくため息をついた。
ミオのスマホが、短く震えた。画面の上端に見慣れない通知が滑り込んでくる。差出人の欄には、聞いたことのない長い英語の名前と、その下に「主任研究員」という肩書きだけが、やけに整った文字で並んでいた。
ミオは画面をのぞき込んだまま、笑顔を貼りつけたまま動かない。指先だけが、ゆっくりと固まっていく。
レンは箸を止め、その横顔をちらりと見やった。
「なんだよ。止まってんぞ」
「……え、あ、うん。待って。待ってね」
ミオの声は明るさを保とうとして、ほんの少し裏返った。レンは首を伸ばして画面をのぞき込む。英単語の羅列が、小さな画面にびっしり並んでいた。
「読めねーよ」
「あ、うん。ちょっと待って……invite、って書いてある。招待、だよね、これ」
ミオは画面から目を離さない。親指でスクロールする動きも、途中で止まっている。レンはため息をついて、弁当の最後のひと口を口に放り込んだ。冷えた米を、ゆっくりと噛む。
「なんだよ。研究成果でも送りつけられてきたか」
「……レン」
ミオの声が、さっきより少しだけ低くなった。笑顔のままなのに、声だけが温度を失っている。
「これ、ちょっとやばいかも」
「やばいってなんだよ。俺の飯の方がよっぽどやばいわ。冷えてるし」
レンは空になった弁当箱の蓋を、ぱたん、と閉じた。
一介のフリーターの評判は、いつの間にか国境を越えていた。




