もう一体
ずる。
ずる、ずる。
音は止まらなかった。
通路の奥の青白い光が、何かにさえぎられて揺れている。
ミオがカメラを構えたまま半歩下がった。
「レン、荷物持って」
「なんで」
「ルールその1!」
「……逃げるやつか」
「そう!」
レンは足元のペットボトルを拾った。
カロリーバーは口にくわえたまま。
包み紙はポケットに突っ込む。ゴミは持ち帰り。札にそう書いてあった。
(律儀か、俺)
顔を上げたときには、もう見えていた。
トカゲだった。
ただし、でかい。
頭から尻尾の先まで、軽トラの荷台くらいある。
灰色のごつごつした背中に、岩を貼りつけたみたいな鱗。
太い尻尾を床に引きずって、ずる、ずる、と近づいてくる。
さっきの音はこれだ。
「岩トカゲ……」
ミオの声が裏返った。
「なんで? なんで1層にいんの?」
「いちゃダメなのか」
「3層からなの! ふつうは! ベテランが3人がかりで相手するやつ!」
「へー」
「へーじゃない!」
トカゲが首を持ち上げた。
舌がちろりと出て、引っこむ。
こっちを見ている。今度はちゃんと目がある。黄色くて、縦に細い。
スライムの方がまだかわいげがあった。
「……レン、目合わせちゃダメだからね」
「なんで」
「熊と一緒! 刺激しないの!」
「熊に会ったことねぇよ」
「会わなくていいの!」
「戻るよ。階段まで走る。あたしが先、レンは後ろ」
「後ろかよ」
「1万円!」
「それ言えば何でも通ると思ってんだろ」
「思ってる!」
「警棒は?」
「腰」
「抜いてよ!」
「抜き方聞いてねぇ」
ミオの手の中で、画面の端の数字が60から跳ねた。
ミオが何か叫びかけて、やめて、走り出した。
レンも続こうとして体をひねる。
その拍子に、ペットボトルのキャップが指から抜けた。
カツン。
コロコロコロ。
よりによってトカゲの方へ転がっていく。
(あ)
3メートルくらい先で止まった。
レンは少し考えた。
キャップのないペットボトルは、ポケットに入れられない。手に持って走ると水がこぼれる。こぼれたら飲めない。飲めないなら138円の損だ。
拾った方が早い。
レンはトカゲの方へ歩いた。
「ちょっ――レン!? なにしてんの!?」
「キャップ」
「キャップ!?」
トカゲが低く体を沈めた。
後ろ足に力がこもる。口が開く。中が赤い。
(歯、多いな)
ミオの悲鳴が通路に跳ね返った。
レンはしゃがんでキャップを拾った。
立ち上がる。
顔を上げたら、トカゲの目が2メートル先にあった。
近くで見ると、思ったよりでかい目だった。
(あ。目、合わせちゃダメなんだっけ)
もう遅い。
トカゲの口が閉じた。
ぱくん、と静かに。
持ち上がっていた首が下りていく。
下りて、下りて、あごが床についた。
腹もついた。
引きずっていた尻尾が、そろそろと体の下へ巻き込まれていく。
レンは知っている。この動き。
前の職場で、部長の机の前から下がっていく新人の動きだ。目を合わせないまま、ゆっくり、音を立てずに。
トカゲは後ろ向きのまま下がった。
1歩。2歩。
十分に離れたところで、くるりと向きを変えた。
そこから先は速かった。
壁に肩をぶつけ、尻尾で床をガリガリ削りながら、通路の奥へ消えていく。
ずるずるずるずる。
音が遠ざかって、聞こえなくなった。
レンはキャップをペットボトルに締めた。
「……なんだよ。拾っただけだろ」
◇
通路はしばらく静かだった。
振り返ると、ミオが10メートルほど後ろで床に座り込んでいた。
カメラだけはしっかりこっちを向いている。プロだ。
「……生きてる」
「生きてるな」
「あたし、生きてる……」
「水飲むか」
ペットボトルを差し出すと、ミオがそれをじっと見た。
「……キャップ拾いに行く人、いる?」
「いるだろ。ここに」
「100円の水だよ!?」
「138円だろ」
「どっちでもいいよ!」
「よくねぇよ。38円だぞ」
ミオは水をひったくって半分くらい一気に飲んだ。
それからスマホを見て、むせた。
「げほっ……同接、210……いや、待って、増えてる」
画面の数字が見ている間にも変わっていく。
210。
340。
480。
《は?》
《今の見た?》
《岩トカゲ帰ったんだが》
《いや岩トカゲって3層だろ》
《なんで1層にいんの》
《そこじゃない》
《背中の人がしゃがんだら伏せたぞ》
《スライムのときも足上げた瞬間だった》
《偶然2回目》
《ヘルメット最強説》
《ヘルメットで説明つかなくなってきた》
「……ねえ。今の、何したの」
「キャップ拾った」
「そうじゃなくて」
「水こぼれるだろ」
「そうじゃなくて!」
「……べつに、そういうつもりはないんだけど」
「どういうつもりもないのが怖いんだって!」
ミオは何か言いかけて、カメラの方をちらっと見た。
回っている。
480人が見ている。
口が閉じた。
「……お腹いっぱいだったのかな」
さっきより小さい声だった。
レンはカロリーバーの残りを口に押し込んだ。
「トカゲって人見たら逃げるだろ。ばあちゃんちの壁のやつもそうだった」
「それヤモリでしょ」
「似たようなもんだろ」
「軽トラとヤモリを一緒にしないで!」
ピロン、とスマホが鳴った。
画面の端に、赤い枠のコメントが流れる。
《¥500 トカゲ代》
《¥1,220 キャップ代》
「お」
「わ、ありがとうございます! トカゲ代とキャップ代いただきました!」
「キャップ代は俺のだろ」
「チャンネルのです!」
「拾ったの俺だぞ」
「撮ったのあたし!」
この男、命より38円の方が重い。
レンは腕を組んだ。
「じゃあ別で危険手当くれ。今のは日当に入ってねぇ」
「……いくら」
「1,000」
「500」
「800」
「……600!」
「乗った」
「……もうちょっと高く言ってもよかったのに」
「先に言え」
家賃まであと9日。
日当の1万を足しても、まだ2万6,000円くらい足りない。
600円は大きい。たぶん。
ミオが立ち上がって、尻のほこりを払った。
「今日はもう上がる。協会に報告しなきゃ。1層に3層のが出たって」
「帰れんのか。助かる」
「1万はちゃんと払うから安心して」
「600もな」
「覚えてるよ!」
帰りはレンが前を歩いた。
ミオは後ろから、カメラで背中を撮っている。
行きより距離が近い。
(盾にされてんな、これ)
べつにいい。日当のうちだ。……入ってんのか、これ。
通路は相変わらず青白いだけで、何も出なかった。
スライムの小部屋の前を通るとき、ちらっと中を見た。
隅っこの水色がもっと隅っこへ縮んだ。
◇
地上に出ると、空気が普通の匂いに戻っていた。
河川敷を車が走っている。
「はい、今日はここまで! 見てくれてありがとう! またね!」
ミオが配信を切った。
最大同接、512人。
始めたときの14人が嘘みたいだ。
《切り抜きまだ?》
《キャップの人》
《背中の人で定着してて草》
《岩トカゲが1層は協会案件では》
《明日も見る》
レンは協会の建物の横の自販機の前に立っていた。
さっきの水はもう空だ。
財布の中身は1,800円と少し。
スポーツドリンクは160円。
家賃まで9日。
(……水道水でいいか)
財布を閉じる。また開ける。小銭を数える。
後ろで、ミオのスマホが鳴っていた。
ずる、ずる。
トカゲの音だ。
止まって、巻き戻って、また、ずる、ずる。
「……それ何回見んの」
「べつに」
ミオは画面から目を離さない。
(それ俺のセリフなんだが)
レンは財布をしまった。水道水だ。
「ねえ、レン」
「ん」
「明日も来て」
振り向くと、ミオはまだ画面を見ていた。
一時停止したままの画面を。
「日当、上げるから」




