最初の一階層
階段は長かった。
錆びた鉄がきしむ。
カンカンと足音が下へ落ちていく。
(何段あんだよ)
20段を過ぎたあたりで数えるのをやめた。
ゲームなら、もう1つ下のフロアに着いてる頃だ。やったことないけど。
やっと平らな床に足がついた。
そこで音が消えた。
風の音も。
河川敷を走る車の音も。
何も聞こえない。
あるのは自分の息と、ミオのカメラの小さな機械音だけ。
匂いが変わった。
湿った土。
その奥に、甘ったるいものが混じっている。
果物が傷む一歩手前みたいな匂いだ。
「……なんか臭くね?」
「それが迷宮の匂い! 慣れると平気になるよ」
「慣れたくねぇな」
通路は幅2メートルほどだった。
壁が薄く青白く光っていて、ライトがなくても足元は見える。
ミオが先に立って歩く。
カメラを自分へ向けて、通路の奥へ向けて、また自分へ向ける。
「はい、第1階層です。みなさん見えてますかー」
画面をちらっと見て、ミオが吹き出した。
「あ、コメント来てる。《初見》。初見さんいらっしゃーい」
「へー」
「《装備それだけ?》だって」
「それだけだよ。渡されたのがこれだ」
「《ヘルメット黄色w》《工事現場》《切り抜きたい》」
「おい」
「読んでるだけだよ!」
「切り抜くな」
「あたしが切り抜くんじゃないもん」
「誰でも一緒だろ」
レンは画面を見ない。
見せなくていいと言ったのは自分だし、そもそも興味がない。
ミオのスマホの中では、コメントが少しずつ増えていた。
《歩き方が慣れてる》
《初迷宮って言ってなかった?》
《背中に余裕ある》
その頃のレンの頭の中は、こうだ。
(昼飯食ってねぇ)
(家賃あと9日)
(このヘルメット、あごひもがずれてる)
余裕というか、ただの上の空だ。
「あ、先に基本ルールね」
ミオが人差し指を立てた。
「浅い階層は弱い個体しか出ないの。スライムとか」
「へー」
「でも油断しちゃだめ。ヤバいと思ったら戦わないで逃げる。これが一番大事」
「逃げる」
「そう」
「逃げ足には自信あるぞ」
「昨日逃げたの、向こうだったじゃん」
「向こうが勝手に帰っただけだろ」
「……まあね」
ミオが何か言いたそうに口を開いて、閉じた。
レンは気づかなかった。
壁の青白い光を、指でつつこうとしていたからだ。
「触らない! ルールその2!」
「早ぇよ」
「何が起きるか分かんないの!」
「先に言え」
通路は何分歩いても、ただ青白いだけだった。
何も出ない。
「なあ」
「ん?」
「出ねぇな」
「出ない方がいいの!」
「配信的にはいいのか?」
「……よくはない」
「どっちだよ」
そのときだった。
通路が少し広くなって、突き当たりに小部屋の口が見えた。
ミオが足を止める。
「……いる」
小声だった。
部屋の床に、影がひとつ。
膝より低い。
丸くて平たくて、ゆらゆらしている。
ミオがカメラをそっとそちらへ向けた。
「出ました。スライムです」
◇
スライムは小さかった。
水色でぷるぷるしていて、床にへばりついている。
コンビニの棚で見るゼリーに似ていた。
目も口もない。
どこが顔なのか分からないのに、なぜか見られている気がする。
「かわいいでしょ」
「うまそうだな」
「食べないで!」
ミオがカメラを構えたまま、レンの袖を引いた。
「じゃあレン、軽くあしらってみて!」
「は?」
「ゲストの見せ場! 画が欲しいの!」
「立ってるだけで1万っつったろ」
「ちょっとだけ動くのも込みで!」
「追加で取るぞ」
「……100円なら」
「安っ」
「今それが限界なの!」
結局、動いた。
スライムの前まで歩く。
足でちょいとどければいいらしい。
右足を持ち上げた。
つま先が床から離れた瞬間だった。
スライムが震えた。
ぶるぶるぶると、ものすごい勢いで。
ゼリーのくせに洗濯機みたいに震える。
そのまま、ずるっと後ろへ下がった。
ずる。
ずるずる。
部屋の隅まで逃げて、壁と床の角に体を押しつけて、半分くらいの大きさに縮こまった。
動かない。
ぴくりともしない。
レンは右足を上げたまま固まっていた。
……下ろす。
「……脅かしてねーだろ」
部屋が静かになった。
ミオのカメラは、隅のスライムに向いたまま止まっている。
「……え」
「なんだあれ」
「今の、ビビってなかった?」
「スライムが? 俺に?」
「うん。たぶん」
「たぶんかよ」
レンは靴の裏を見た。
何もついていない。
(靴が臭ぇのか)
嗅いでみようとして、やめた。
撮られている。
「顔が怖かったんじゃない? あんた目つき悪いし」
「べつに、そういうつもりはないんだけど」
「じゃあ寝癖だ」
「寝癖でビビるやつがいるかよ」
少し間があって、ミオが首をかしげた。
「……まあ、たまたまか」
「たまたまだろ」
「スライムって気分屋だし」
「俺もだ」
「それは知ってる」
「休憩できるとこあるから行こ」
ミオがカメラを下ろして歩き出した。
レンも後を追う。
部屋を出る前に一度だけ振り返った。
スライムはまだ隅で丸くなっていた。
こっちを見ている、ように見えなくもない。
目がどこか知らないが。
まあ、いいか。
◇
休憩所は通路の脇のくぼみだった。
平たい岩が2つ。
誰かが置いたパイプ椅子。
壁に手書きの札がかかっている。
『休憩所 ゴミは持ち帰り』
「手書きかよ」
「協会の人が置いてくれてるの」
ゴミ持ち帰りの字だけ妙に丸い。
書いた職員の顔が浮かばない。
ミオは岩に座って水を飲んだ。
レンにもペットボトルが飛んでくる。
受け取って、キャップを回した。
その横で、ミオがスマホを見て目を丸くした。
「え、ちょっと待って」
「なんだ」
「同接、60人いる」
「14じゃなかったか」
「4倍以上だよ! 昼過ぎなのに!」
「へー」
「へーじゃなくて! ほら!」
突き出された画面を、レンは横目で見た。
《今の草》
《スライム日和ってて草》
《ヘルメットのせいでは》
《工事現場のおじさんには勝てんわな》
《背中の人ワンチャン強い?》
《ないない》
「ヘルメットのせいで逃げたんなら」
レンはペットボトルを傾けた。
「これ被ってりゃ無敵じゃねーか」
「それ次の配信の一言目にしよう!」
「言うな」
ミオは笑いながら、コメントをもう一度スクロールした。
《背中の人ワンチャン強い?》のところで指が止まる。
「さっきの、もしかして――」
「ん?」
「なんでもない!」
スマホがぱっと伏せられた。
咳払いがひとつ。
「でもさ。さっきのスライム何だったんだろうね」
「寒かったんじゃね」
「迷宮に寒いとかあるの?」
「知らねぇけど。ゼリーって冷やすと固まるだろ」
「あれゼリーじゃないよ!」
レンは岩に座り込んだ。
「腹減った」
「早っ」
「昼食ってねぇんだよ」
ミオがポーチからカロリーバーを出した。
1本だけ。
レンは無言で受け取って包みを破る。
チョコ味。
うまい。
時給1,100円のバイトなら、まだ3時間にもならない。
でも今日は日当だ。
歩いて、座って、カロリーバーをもらっただけ。
(これでいいのか、1万円)
いいことにした。
深く考えると帰りたくなる。
ドン、と奥で音がした。
床が、ほんの少し揺れた。
ペットボトルの水面に輪っかが立つ。
続けて、何かを引きずる音。
ずる。
ずる、ずる。
ミオの笑顔が固まって、カメラがゆっくり通路の奥を向いた。
《え》
《今の何》
《スライムの親?》
「……レン」
「聞こえてる」
レンはカロリーバーをくわえたまま立ち上がった。
「まだ何か来んのかよ」




