顔合わせ
緑のテントの中は思ったより広く、思ったより天井が低かった。パイプ椅子がずらりと並び、長机の上には紙の束とペットボトルが几帳面に置かれている。奥の壁には巨大な地図が貼られ、赤いピンが何本も刺さっていた。
レンが垂れ幕をくぐった瞬間、中の空気が変わった。
ざわ、と静かに波が広がる。
「……あれが種別S?」
「寝癖のままじゃん。嘘だろ」
「隣、雨宮ミオだ。ってことは本人か? 替え玉か?」
「絶対違うって。どう見ても素人だろ」
探索者たちが一斉にレンを見た。値踏みする視線、疑う視線、面白がる視線。どれも遠慮なく、まっすぐに突き刺さる。レンはそれを全部、平熱で受け流した。気にするだけ無駄だと知っている。
前列の真ん中でさっきの大男が腕を組んで座っている。背もたれが悲鳴を上げそうなほど体を預け、脚を組まず正面だけを見据えていた。
「あの人、西のランクAだろ」
「やっぱ来てたか。今回の調査、西からはあの人が筆頭か」
「隣に座りたくねえなあ……」
大男は何も言わない。ただレンが入口に立ったときだけ、ゆっくりと目を向けた。それきり、また正面へ視線を戻す。
レンは空いている後方の席へ歩き出した。ミオが壁際に寄り、閉じたカメラを胸に抱えて小さく息を吐く。
「……レン、空気やばくない?」
「そうか?」
レンは椅子を引いて座りながら、心の底からどうでもよさそうに言った。
「話題性だけの素人と組まされるのは迷惑なんだがな」
大男の声は、地を這うように低くやけに通った。テントの中の空気が、ぴたりと止まる。パイプ椅子の軋む音も、ペットボトルを回す手も全部が一瞬で消えた。
全員の視線が、後方のレンへと一斉に突き刺さる。大男は前を向いたままだ。腕を組んだ姿勢も崩さない。ただ、その横顔には「聞こえているか」とばかりの圧があった。
ミオが壁際で声にならない悲鳴を上げるように口を押さえた。レンは背もたれに体重を預けたまま、寝癖の頭をかいた。まだ何も言わない。
「あ、そうすか」
レンの返事はびっくりするくらい素っ気なかった。相手がランクAだろうと、西で一番有名だろうと知ったことではないらしい。声に張りもなければ、怖がる気配すらない。
大男が思わず振り向いた。口を開けたまま、何か言おうとして言う言葉が見つからない。組んでいた腕がほどけ、太い指が空を一度だけ握ってまた開く。
レンは長机の上のペットボトルを手に取ると、キャップをひねって一口飲んだ。ごく、と喉が鳴る。それだけだった。
周りの探索者たちが肩を震わせて笑いをこらえる。ある者は慌てて下を向き、ある者は顔を覆いまたある者は「あーあ」と天井を見上げて誤魔化した。大男の顔がみるみる赤くなる。
「……ふん」
大男は短く咳払いをひとつ。乱暴に椅子へ座り直し、腕を組み直して正面へ向き直った。背もたれがぎしりと鳴る。
ミオは壁際で両手を口に当てたまま、目だけをレンに向けていた。声は出していない。でも口の形が「えぐ」と動いている。
レンはペットボトルを机に戻し、寝癖の頭をかいた。ブリーフィングが始まる気配はまだない。
職員が奥の地図の前に立った。背の高い男で、手にしたタブレットを片手で操作しながら、もう片方の手でホワイトボードを軽く叩く。
「それでは合同ブリーフィングを始めます。明日の朝6時、第1階層への入洞を予定しています」
テントの中の空気がすっと引き締まった。背筋を伸ばす者、ペンを握り直す者。ミオは壁際で小さく息をのむ。
「富士裾野大迷宮は国内最大級の規模を誇りますが、全容は未だ解明されていません。協会が記録を有しているのは、現時点で上位数階層のみ。それより深部の階層数は不明です」
職員はタブレットを一度スクロールし、地図の上の赤いピンを指でなぞった。
「深くなるほどモンスターの強度は上がり、危険度も増します。詳しくは班ごとの資料に記載があります」
「本調査は第1階層から順に下りていく形を取ります。各班の担当階層は追って通達します。なお、特別立会人の方は――」
職員の視線が、後方のレンに移った。
「西のランクAの班に同行していただきます」
どよ、と低い波が起きた。前列の真ん中で、大男が露骨に舌打ちした。ちっ、という短い音がやけに静かなテントの中にはっきりと響く。組んだ腕は解かない。正面を向いたまま、その横顔だけが不機嫌を隠そうともしていない。
(あー、嫌われてんな)
レンは背もたれに体を預けたまま、ぼんやりと天井の低いパイプを眺めた。明日の朝6時。宿を出るのは何時になるんだろう、朝飯は出るんだろうかと考えている。
「以上です」
職員がタブレットを下ろし、顔を上げた。
◇
休憩エリアへ向かう道すがらテントの間を荷車を引く四つ足のモンスターが歩いていた。協会の紋章が入った荷台には銀色のコンテナが積まれている。レンがその横を通りかかった、まさにその瞬間だった。
四つ足がぴたりと止まった。
「え?」
荷車の前で、モンスターは前足を折りゆっくりと腹ばいになった。そのまま頭を地面に擦りつけるように深く下げる。積んでいたコンテナががしゃんと揺れた。引き綱を持つ職員が慌てて声をかける。
「おい、どうした。立て、進め」
綱を引くが、モンスターは微動だにしない。まるで地面に縫い付けられたみたいに平たくなっている。職員がレンとモンスターを交互に見て、顔を青くした。
ミオが「え、待って待って今これって」と小声で連呼しながらカメラを開こうとして、思いとどまって胸に抱える。
レンは立ち止まり、地面に頭をこすりつけるモンスターを見下ろして言った。
「仕事しろよ」
それだけだった。歩き出したレンの背中を、モンスターは顔も上げずに見送った。職員が「立てって!」と半泣きで綱を引いている。
大男が垂れ幕をくぐって出てきたのは、ちょうどモンスターが腹ばいになった直後だった。肩に担いだ長物を片手で支え直す動きが、途中でぴたりと止まる。
目の前で、協会の荷運びが地面に頭をこすりつけている。その横を、レンが寝癖の頭のまま素通りしていく。何でもない顔で、歩く速度すら変えていない。
大男は口を開けた。開いただけで、何も出てこない。長物を担いだまま、顔だけがこわばっていく。
後ろから出てきた探索者たちが、同じ光景を見て足を止めた。
「今の見たか」
「あれ、協会の荷運びだろ。調教済みの」
「それが土下座してるぞ。あの寝癖の前で」
「本物かよ」
声が次々に重なっていく。それでもレンは振り返らない。後ろで何が起きているのか、そもそも気づいていないように見える。
大男はしばらくその場に突っ立っていた。長物を担ぎ直すこともできないまま、地面にへばりつくモンスターと、遠ざかるレンの背中を順番に見る。
「……ちっ」
ようやく出たのは舌打ちだけだった。
「あれ、配給の荷物だよね」とミオが呟いた。
「止めてどうすんだよ」とレンは休憩エリアの匂いに鼻をひくつかせながら言った。
休憩エリアは配給の列でごった返していた。折りたたみの長机に銀色のトレーが並び、湯気の立つカレーが次々と手渡されていく。レンはトレーを受け取ると、空いているベンチへ迷いなく歩いた。ミオがその向かいに座る。
「感じ悪いんだけど、あの人も」
「信じらんない。あの態度。こっちが挨拶する前に、あれはないでしょ」
ミオはスプーンを握ったまま、まだ湯気の向こうを睨んでいる。
「話題性だけの素人、って。どの口が言うんだよ。あたしの動画に出てるレンが素人なわけないのに」
「いや、素人だろ」
レンはカレーを一口口に運んだ。思ったより辛くて、思ったより量があった。顔がほんの少しゆるむ。
「お前の動画でまだ1回も戦ってねえしな。後ろで立ってるだけだし」
「そこは『背中の人』って呼ばれてるだけでしょ!」
「呼ばれてもねえよ。勝手に呼んでるだけだろ」
「ひどくない!? 登録者50万人のチャンネルの功労者に向かって!」
「功労者って、お前が勝手に撮ってるだけだろ」
ミオがスプーンを逆さに持ってレンを指す。カレーが一滴、テーブルに落ちた。
「あー、もー! あんたってほんとに緊張感ないよね!」
「あるよ。飯がうまいって緊張感」
「それただの食欲!」
ミオは声を張り上げて、それからふてくされたようにカレーをかき混ぜる。レンはもう二口目にいっていた。大男のことも、明日のことも今この瞬間はカレーの前にかき消えている。
「まあ、そういうのいちいち気にしてたらキリないだろ」
「あんたが言うと妙に深いんだけど」
「深くねえよ。ただ、腹減ってるだけだ」
レンはルーを米に絡めて口いっぱいに頬張った。ミオが呆れたように笑い、それから自分のトレーに目を落とした。
「……おかわり、あるかな」
現地担当の職員がクリップボードを抱えて小走りに寄ってくる。白いワイシャツの背中に汗の染みができていた。
「十文字さん、明日の日程が確定しましたので」
レンはカレーの最後の一口を飲み込んで顔を上げた。職員はクリップボードをめくり、早口で読み上げる。
「明日、朝5時半に入口前の集合場所へお願いします。6時に西のランクAの班と合流し、そのまま第1階層へ入洞します。遅刻は絶対にご遠慮ください。班は6人編成で、十文字さんは最後尾を歩いていただきます」
「あの、それで」とミオが手を挙げる。「あたしは? あたしはどこまで?」
職員はクリップボードを見たまま顔だけ上げた。
「雨宮さんは同行者ですので、入口の手前までです。入洞はできません。撮影も入口の手前の指定エリアまでとさせていただきます」
「え、待って待って」ミオが身を乗り出す。「入口の手前って、じゃあ中は全然」
「規則ですので」
「あたし、レンの隣を撮ってるから伸びてるんですけど。入口で止められたら明日から何を撮るんですか」
ミオの声が少しだけ低くなる。職員はクリップボードで口元を隠すようにして「上に確認します」とだけ言った。ミオはまだ何か言いかけ、口を結んで腕を組んだ。
「宿へはこのあと、協会のマイクロバスでご案内します。荷物をまとめて、正面のバス乗り場へ7時までにお願いします」
職員は一礼して小走りに去っていった。
ミオが「上に確認って、確認してどうなるの」と呟くように言う。レンは立ち上がり、トレーを返却口へ運びながら遠くを見た。
山の斜面の裂け目が夕方の光で黒く縁取られている。中はもう、昼よりずっと暗く見えた。明日の朝6時、あの中に潜る。寝癖の頭で使ったことのない警棒を腰にぶら下げて。
(まあ、なんとかなるだろ)
レンはミオのトレーも勝手に持ち上げて、返却口へと歩いた。
返却口の前でトレーを重ねた大男がレンたちの横に並んだ。厚みのある背中が近くで見るとやはり自動販売機で、置かれたトレーが3段になっている。
「おい、そこの」
大男が顎で現地担当の職員を呼び止めた。去りかけた背中がびくりと止まり、クリップボードを抱えたまま慌てて戻ってくる。
「同行者の1人くらい、班長の俺が面倒を見る。入れてやれ」
「えっ、ですが規則では――」
「規則は読んだ。同行者の入洞は班長の判断で決めていい、と書いてあっただろ」
職員がクリップボードをめくり、指で行をなぞった。
「……確かに」
職員はクリップボードを胸に抱えたまま、それ以上なにも言えずに一礼した。
「え、待って待ってじゃああたし中入れるの!?」
ミオがレンの袖をぐいぐい引っ張りながら声を裏返らせる。
大男はそんなミオには一瞥もくれず、トレーを返却口に置くとゆっくりレンの横へ並んだ。肩が触れそうな距離で、上から見下ろすように目を落とす。
「明日、俺の後ろで寝癖を揺らしてるだけなら、置いていくぞ」
地を這う声は、周りの探索者たちの耳にも届いたらしい。何人かが息をひそめてこちらを見る。
「はいはい」
レンはそれだけ言って、空になったトレーを重ねた。目も合わせない。大男は一瞬だけ眉を動かし、それから鼻で短く息を吐いて背を向けた。




