異例認定、決定
飛びかかった影が、レンの喉元まであと一歩というところで――止まった。
悲鳴のような音を立てて爪が床を削り、前足が宙でばたつく。勢いのまま体が斜めに傾ぎ、肩から床へ落ちた。ドサッと鈍い音が試験場に響く。
そのまま、伏せた。
腹を床につけて前足を前に投げ出して、頭を低く垂れて。さっきまで牙を剥いていたのが嘘みたいに、しっぽだけが小さく震えている。
「……は?」
レンはようやく、それだけ声を出した。
一歩も動いていない。構えてもいない。軍手の指先すら、ぴくりとも動かしていない。ただ立っていただけだ。
(いや、待て。今の、どういう理屈だ)
左右の2体は、まだ伏せない。左が半歩引いて唸りを低くし、右が壁際で足を止めたまま伏せた真ん中の個体とレンを交互に見比べている。まるで、先にやられた同僚を見ているみたいな目だった。
左の1体が、半歩引いた足をそのまま折るようにして腹を床へつけた。前足を投げ出し、首を低く垂れる。唸り声が息を吐く音に変わった。
右の1体も、壁際でくるりと体を返すと同じ格好で頭を下げた。爪の先までぴたりと揃えて、しっぽだけが所在なさげに揺れている。
そして、伏せていた真ん中の1体がまるで最初から決まっていたみたいに頭を床へこすりつけた。
3体が、レンの正面に横一列に並んで同じ深さで、同じ角度で頭を床につけて動かなくなった。号令でもかけられたみたいに、ぴたりと揃って。
壁際の職員たちが息を呑む音だけが、やけに大きく響いた。
(なんだこれ)
レンは警棒をだらりと下げたまま、その列を見下ろしていた。寝癖のついた頭が、ゆっくり右から左へ動く。
(俺、まだ何もしてないんだけど)
窓の外では、ミオが両手をガラスに張りつけたまま固まっていた。口が半開きで、目がまん丸に見開かれている。声は聞こえない。聞こえないけど、多分「うそでしょ」って言ってる。
レンは試しに、寝癖の頭をぽりぽりとかいた。
伏せていた3体がそろってびくりと肩を震わせ、頭をさらに低くする。床にこすりつけるんじゃないかってくらい深く、深く。
(なんだよ、今の)
レンは半歩、前に出た。
すると3体は腹ばいのまま、同時に半歩さがった。前足を引きずるでもなく、爪の先まで揃えてするすると。動きまで号令をかけられたみたいに綺麗に揃っている。
レンは足を止めた。
壁際の職員の1人が隅の記録用カメラを振り返って、赤いランプが点いているのを確かめる。それから隣の同僚と目を見合わせ、小さくしかし確かにうなずき合った。
レンは面倒くさくなって、出した足を元の位置に戻した。
3体も、ぴたりと止まる。また同じ距離で頭を下げている。
(……これ、俺が動くたびにやんのかよ)
レンは黄色いヘルメットのあごひもを指で弾いた。ぱちん、と乾いた音がして3体の耳が一斉にぴくりと動いた。
観察室のガラスの向こうで常磐が組んでいた指をほどいた。マイクの前に顔を寄せ、何か言いかけて喉の奥で言葉をひとつ転がす。
「……これは」
スピーカーから漏れたのはそれだけだった。あとは息の音が微かに混じるばかりで、続きが出てこない。細い目が3体の伏せた列とレンを、順に2度往復した。
レンは警棒を下げたまま、ゆっくり観察室を見上げた。
(なんだよ。言いたいことがあるなら言えよ)
ヘルメットのあごひもが首に食い込むのも気にならない。むしろ、この沈黙のほうがよっぽど耳にうるさい。
(再現性だか何だか知らねえけど、これが結果だろ。ほらとっとと書類に書け)
レンは鼻の奥で小さく息を吐いて、視線を正面へ戻した。3体はまだ、同じ深さで頭を床につけたまま動かない。
2階の見学席に、いつの間にか人影が増えていた。年配の男だ。背広の前をきっちり合わせたまま、こちらをまっすぐ見下ろしている。
(ああ、あのおっさんも来てたのか)
レンは首だけを少し後ろへ傾けて、見学席の端から順に視線を滑らせた。年配の男の隣に、口元を引き結んだ男がひとり。さらに奥に、落ち着かない様子で前のめりになっている男がひとり。
(3人か。偉そうなのが勢揃いってわけだ)
観察室のスピーカーから、常磐の声が小さく漏れた。
「しかし、これはまだ――」
言葉は、最後まで続かなかった。
年配の男が、見学席の手すりの前に静かに立った。手すりに両手を添え、背筋を伸ばしたままゆっくりと口を開く。
「これほど過酷な条件下での、統率された服従反応……」
声は試験場の壁に低く響き、隅に並んだ職員たちの肩をぴくりと跳ねさせた。
「これ以上の証明は、不要でしょう」
年配の男はそれだけ言うと常磐のいる観察室を見上げるでもなく、目の前の3体とレンを順に見下ろした。細く息を吐く音だけが、やけにはっきり聞こえる。
レンは手すりの向こうを見上げたまま、鼻の奥で小さく息をついた。
(かっこいい言葉で片づけやがって)
年配の男の声が、もう一度降ってきた。
「本件、十文字レンを異例のイレギュラー種別として認定する。本審査の結果をもって、正式な決定とする」
口元を引き結んだ男が、黙ってうなずいた。目だけが3体の伏せた列をゆっくりなぞる。
前のめりの男が、小さく笑った。声には出さず眼鏡の奥で目を細めるだけだった。
常磐の声が、スピーカー越しにわずかに震えた。
「部長。規定では、再現性の検証には――」
言葉の続きを前のめりの男が遮った。見学席の手すりに片手を添えたまま、観察室のガラスをまっすぐ見上げる。
「記録のとおりですよ。前にも申し上げたでしょう」
静かな声だった。場の空気を冷やすように、ひとつ間を置いてから続ける。
「次は誰も止められませんよ、と」
常磐の声が、ぷつりと途切れた。マイクの前で指が止まり、細い目が見開かれたまま動かない。
観察室のガラスの向こうで常磐が机の上の記録用紙へ目を落とした。ペン先が用紙の上でぴたりと止まる。書けない。指がわずかに震えて、ペン先だけが紙の上で迷っている。
マイクに顔を寄せ、口が「素……」と動いた。
そこで、閉じた。
(書けよ。ほら、そこに「なし」って)
レンは警棒をだらりと下げたまま、見学席を見上げた。
「はいはい、それはよかったすね」
声はいつもの寝起きのトーンだった。
年配の男がレンを見下ろした。何か言いかけて、やめた。
年配の男が手すりから片手を上げ、壁際へ目配せをした。職員の1人が書類を持って前へ出る。足音がやけに響いた。
「只今より、十文字レン殿の認定区分を告示します」
職員は書類を両手で持ち、場内に聞こえる声で読み上げ始めた。壁際の職員たちが一斉に背筋を伸ばす。
その途中で、レンの視界の端で窓が暴れ出した。ミオだ。両手のひらでガラスをばんばん叩いて、その場で跳ねている。口が大きく動いている。声はまったく届かない。叩くたびにガラスが白く濁って、人影がにじんだ。
(うるせえな。こっちは今、書類読まれてんのに)
レンは顔を戻した。職員は読み上げを止めない。
「区分、イレギュラー種別S」
職員が書類を閉じ、顔を上げた。「イレギュラー種別S」。もう一度、はっきりと繰り返した。
告示が終わった瞬間、壁際の職員たちがこらえきれずにざわついた。背筋を伸ばしていたのが嘘みたいに、あちこちで肩が崩れる。
「協会でSって、何年ぶりだよ」とさっき「さすがに今回は……」と囁いた職員が漏らした。隣の同僚が「調査官より上ってことだろ」と返し、言ってから自分でギョッとした顔で口を押さえる。
(今の聞こえてんぞ、たぶん)
レンはそのやり取りを寝癖の頭でぼんやり聞き流して、書類を閉じた職員のほうへ顎をしゃくった。
「で、報酬は」
職員が書類を胸に抱えたまま、困ったように眉を下げる。
「えっと……追って、書面で」
「またそれかよ」
レンは小さく息を吐いた。Sだのなんだのと格好いい名前を並べた割に、財布の中身は審査の前と1円も変わっていない。何年ぶりだのなんだのと言うなら、そこも何とかしてほしいものである。
窓の外でミオがまだ跳ねていた。指で丸を作って、こっちに見せている。多分いいぞ、の意味だ。声は届いてないが、うるさいのは分かる。
ミオが跳ねるのをやめ、スマホを構えて凄まじい速さで親指を打ち始めた。打ち終えると画面を窓に押しつけるが、ガラスが白く曇って画面の字はにじむばかりで読めない。レンはその必死な指先を眺め、(あいつもう誰かに言う気だ)と嫌な予感がした。
3体はまだ伏せたままだ。しっぽの先だけが揺れている。
レンは首を傾げた。
(Sってなんだよ)




