過酷な審査
午前10時。迷宮協会の試験場は、天井の照明を半分落として薄暗かった。
扉をくぐると、空気が冷たかった。
壁際に並んだ協会の職員たちの表情もよく見えない。みんな背筋を伸ばし、両手を前で組んでこっちを見ていた。声を出す者は一人もいない。
隅に記録用カメラが三脚で据えてあって、赤いランプが一定の間隔で点滅している。床には、前回来たときにはなかった爪の痕が何本も走っていた。深いやつが3本、浅いやつが無数。壁のほうへ伸びて、途中で消えている。
(あー……派手にやったんだな)
レンは空いた手をポケットに突っ込んだまま、その痕を目で追った。削れた床の断面がまだ新しくて、白っぽく光っている。
(まあ、俺は別に)
心臓はいつもどおりの速さだった。むしろ、この静けさのほうが眠気を誘うくらいだ。
あくびをひとつ噛み殺して、レンは足を止めた。
レンは場の中央にぽつんと立たされていた。黄色いヘルメット、膝当て、軍手。手には使ったことのない警棒が1本。それだけだった。
目の前に、いた。
奥のゲートから3体。低い唸りはまだない。だが、どれも前回の試験場にいた個体とは違う。肩が盛り上がり、爪が床を引っかく音がやけに大きく響く。
(広いな。ここ)
レンはぼんやり天井を見上げた。
(ミオのやつ、外で怒鳴ってるだろうな)
試験場の壁の向こう、ガラス越しに、こちらを見ている人影がある。よく見えなかった。見なくても分かった。
(まあ、別に)
(そういえば、入る前もこんな感じだったな)
レンは場の中央に立たされたまま、ぼんやり入口のことを思い出していた。
「ここから先は受験者本人のみです」
職員が腕を横に伸ばして、ミオの行く手を止めた。ミオは「ちょっと待って、あたしも」と食い下がったが、職員は「規定ですので」と繰り返すだけだった。
ミオはかばんを抱えたまま、こちらを見た。
「……無理しないでよ」
その声が、いつもの半分くらい小さかった。
「べつに」
レンはそれだけ返して、扉をくぐった。
(無理も何も、別に無理する気なんて最初からねえよ)
レンは心の中でひとりごちて、目の前の3体へ視線を戻した。
「準備はよろしいか」
スピーカー越しに常磐の声が降ってきた。試験場の上、観察室のガラス越しにあの皺ひとつないスーツが見える。
「いつでも」
レンは警棒をだらりと下げたまま答えた。
「これより追加の適性審査を開始する。本日の個体は調査部が選定した3体。いずれも攻撃性の高い記録を持つものばかりだ」
「安全性は協会側で担保する。危険と判断した場合は、壁際の職員が速やかに停止させる。すべて、あちらの記録用カメラに残る。異論はないかね」
レンは鼻の奥で「はあ」とだけ返した。眠気がまだ抜けない。壁際に並んだ職員たちの1人が、隣の同僚に顔だけ寄せて囁くのが聞こえた。
「さすがに今回は……」
声は小さくて、そこから先は消えた。
(さすがに、ねえ)
3体。前回は1体だった。増えた。
(増えたところで、別に)
レンは目の前の3体を順に数えた。1、2、3。数えるのも面倒くさい。
(1体が3体になっただけで、なんか変わると思ってるんだろうか)
爪が床を引っかく音が3つ分、ずれて響いている。それだけの違いだ。
「前回の結果には、再現性の確認が取れていない。……君も、それは重々承知しているかね」
スピーカー越しの声は、雑音ひとつなく澄んでいた。
「だから今日は、その一点だけをはっきりさせよう。この3体を相手に、あの現象が再び起きるのか否か。……君の力量ではなく、現象の真偽を問う場だ。心してかかり給え」
レンは観察室のガラスを見上げた。
「はあ。どうぞ」
返事はそれだけだった。
(再現性ねえ。まあ、勝手に確かめればいいんじゃねえの)
レンはあくびをひとつ、今度は噛み殺さずにした。
常磐はマイクの前で指を組んだ。細い目が、レンをじっと見据えている。
「では――」
レンは首を軽く回した。寝癖がまだ跳ねている。
(さて、と)
常磐の声が、試験場に静かに広がった。
「これでも通用するか、拝見しましょう」
試験場の空気がびり、と震えた。
3体が同時に喉を鳴らし始める。腹の底に響くような低い唸りが、壁に反響して重なった。床を引っかく爪の音が、まるで黒板を擦るみたいに耳へ刺さる。
「多いな……」
レンはそれだけ言った。
構えない。足も動かさない。膝当ての位置すら直さない。ただ寝癖のついた頭が、ゆっくり3体を左から右へ流し見ただけだった。
観察室のガラスの向こうで常磐が指を組んだまま身を乗り出す。スピーカー越しに、息を呑む音だけが微かに漏れた。
壁の窓の向こうで、ミオが両手をぺたりと押しつけているのが見えた。口が「レン」と動いた。声は聞こえない。
(あーあ、あいつ、またあんな顔して)
レンは空いた手をだらりと持ち上げて、振るでもなく指先だけをひらりと動かした。それだけだった。
(べつに、大丈夫とかそういうんじゃない)
手を下ろす。ポケットに突っ込んだ。
ミオがまだ何か叫んでいる。ガラスが白く曇って、人影がにじんだ。
(声、聞こえねえっての)
レンは正面へ向き直った。3体の唸りが、さっきより低く重くなっている。
左の1体が、肩を落とすように姿勢を低くした。爪の先が床に食い込み、じり、と音を立てる。
真ん中の1体が、牙を剥き出しにして前足で床を掻いた。削れた床の断面が、薄暗い照明の下で白く跳ねる。
右の1体は、壁際を大きく弧を描いて回り込もうとしていた。こちらを正面から見ないまま、一歩ずつ間合いを詰めてくる。
壁際の職員たちが息を詰めた。誰一人動かない。動けない。静けさが、逆にやかましいくらいだった。
(早く終わらないかな)
(報酬はいくらなんだろう)
レンは、黄色いヘルメットをかぶったまま突っ立っていた。軍手の指先すら、ぴくりとも動かない。
左の1体が、また半歩、踏み込む。真ん中の1体が喉の奥をぐるると鳴らした。右の1体は、壁際で一度止まり、こちらを見上げるように頭を傾ける。
壁際に並んでいた職員の1人が、思わず1歩さがる。そのまま背中を壁にぶつけて、小さく「あっ」と漏らした。誰も振り向かない。振り向く余裕がない。
床が、小さく震えた。3体の爪が同時に床を引っかくたび、薄暗い照明の下で細かい埃が跳ねる。
観察室のガラス越しに常磐が指を組み直すのが見えた。固い表情のまま、組んだ指をゆっくり締め直している。あの指先が、わずかに白い。
(緊張してんのは向こうかよ)
レンだけが平気な顔で突っ立っていた。
唸りはまだ低いままだ。誰も、飛びかかってこない。
その刹那。
真ん中の1体が、後ろ足で床を蹴った。
爪がコンクリートを削り、前足が浮く。肩の盛り上がりが一気に膨らみ、目が真っ直ぐレンの喉元を捉えた。
(ああ、来るのか)
レンは心の中でだけ呟いて、瞬きひとつしなかった。
飛びかかる影が、視界いっぱいに広がる。




