条件の吊り上げ
同じ日の午前。協会2階の小さな会議室に、レンとミオは通された。
机の向こうには常磐と、その隣に座った職員が並んでいる。常磐の背筋は今日もまっすぐで、スーツの皺ひとつない。ただ指先だけが通知書の端を何度も揃え直していた。
「お待たせしました。では、お伝えします」
常磐は紙を2人の前に滑らせ、細い目を上げた。
レンは椅子の背にもたれたまま、寝癖のついた頭を軽く傾げる。ミオはその横で、かばんを膝に抱えて背筋を伸ばしていた。
「追加の適性審査についてですが――」
常磐は通知書を両手で持ち、読み上げる声を一段低くした。
「追加の適性審査では、通常の格付け試験で用いる個体より攻撃性の高い個体を、複数体同時に試験場へ用意します」
「個体の選定は調査部が行います。安全性は協会側で担保します」
言い終えて、常磐は顔を上げた。
ミオの、かばんを抱えた指が止まる。
「え」
声が、喉の奥でつっかえたように出た。
「複数体、って……」
ミオは常磐の顔と通知書を交互に見て、それきり口を閉じた。
その職員がクリアファイルから通知書の2枚目を抜き、事務的な声で読み上げる。
「なお、審査の会場に入室できるのは受験者本人1名のみとする」
ミオの背筋が、すっと冷えた。
「同行者は会場の外で待機すること。入室は認めない」
職員は読み終えて、紙を机の上に戻した。視線はミオの顔を避けるように、通知書の角に落ちている。
ミオはかばんを膝に抱えたまま、口を開いた。
「あたしも、入れないんですか」
声は、自分でも意外なくらい静かだった。
机の向こうで、常磐が顔を上げる。細い目はまばたきひとつせず、まっすぐミオを見ていた。
「規定です」
短かった。それ以上は、何も続かなかった。
ミオは、通知書の2枚目をじっと見た。活字が、やけに黒く見える。
(規定。ああ、そう。規定、ね)
ミオが机に手をついて、身を乗り出した。
「これ、危険すぎない?」
声はいつもの明るさより半音低い。
常磐は通知書を机に置き、指を組んだ。
「イレギュラーの証明には、これくらいの条件が必要でしょう」
声はあくまで落ち着いていた。
隣の職員が小さく、深くうなずいた。
ミオは食い下がった。
「前の試験は個体が1体で、立会人もいて計測もしてたじゃないですか」
声は、自分でも分かるほど尖っていた。
常磐は、まっすぐミオを見た。
「前回は結果の再現性がまだ確認できていません」
淡々とした声だった。
「条件を引き上げて確かめるのは、手続きとして当然です」
ミオの口が開きかけて、閉じた。
(手続き。また、手続き)
言い返す言葉が、どこにも見つからない。
ミオは唇を噛んで、それ以上は言わなかった。
レンは背もたれに寄りかかったまま、常磐の指先をぼんやり眺めていた。
レンは背もたれから身を起こすと、だるそうに片手を上げた。
「これ、金出るんすよね」
常磐は通知書を揃え直しながら、視線も上げずに流した。
「報酬は規定の範囲内で、追って書面でお知らせします」
「書面ねえ」
レンは頭をかいた。書面という言葉が、いかにも先延ばしの方便に聞こえた。
ミオが横から身を乗り出す。
「配信は? あたしのチャンネルで回していいんですか」
常磐はようやく顔を上げた。まばたきは少ないままだ。
「会場内の撮影は協会の記録用カメラのみです。外部の機材は持ち込めません」
(要するに、怖がらせたいだけだろ)
複数体だの何だのと並べ立てて、ビビって辞退すればそれでいい。どっちに転んでも常磐の土俵だ。
(まあ、俺は別に)
レンはあごを軽く引いて、天井の蛍光灯を見た。
「受けるか辞退するか。君が決め給え」
常磐は通知書に指を置いたまま、レンをまっすぐ見た。声は丁寧なのに、語尾だけがやけに鋭い。
レンは通知書を一瞥し、すぐに目を離した。
「別にいいけど」
あっさりした声だった。いつもの寝起きみたいなトーンで、迷いのかけらもない。
常磐の指が、紙の上でぴたりと止まった。隣の職員も、うなずきかけた首を中途半端な角度で固めている。
ミオが立ち上がりかけて、机に手をついた。
「ちょっとレン」
声だけが会議室にやけに響いた。
レンがひらりと手を上げて、ミオの言葉を遮った。
「いいって」
その声があまりに平熱で、ミオは立ちかけた腰を中途半端に浮かせたまま止まった。
常磐はわずかに目を細め、通知書の最後の頁を指先でトン、と叩いた。承諾の署名欄だった。
「では、こちらに」
レンは差し出されたペンをその場で取った。寝癖のついた頭が、署名のあいだだけ少し俯く。ペン先が紙を滑る音が、やけに長く聞こえた。
(あっさり、すぎない?)
ミオは自分の喉が渇いていくのを感じていた。署名のあいだ、常磐と隣の職員がちらりと目を合わせ、何か言いかけてやめた。職員の口が半分開いて閉じる。その仕草が、ミオには妙にゆっくり見えた。
ペンが置かれる。常磐が通知書を両手で揃え、皺のない指先で端を整えた。
「……では、以上です」
常磐は通知書を揃えたまま、席を立つレンにだけ聞こえる声で口を動かした。声は、ほとんど息だった。
「素人が」
レンは立ちかけた腰をそのまま伸ばした。
(出た)
「はいはい」
流して、椅子を引く。ミオは黙って先にドアへ向かい、取っ手を握って開けた。レンはポケットに手を突っ込んだまま後に続く。
◇
会議室のドアが閉まる音を背中で聞きながら、ミオは廊下を歩いていた。かばんの肩ひもを握る手に、じわりと汗がにじむ。
(なにあれ。なにあれ。複数体って。攻撃性の高い個体って)
レンはもう数メートル先の自販機の前に立っていて、こちらを振り向きもしない。
「雨宮さん」
横から声がして、ミオは足を止めた。装備課の職員だった。さっき倉庫で会った人だ。周囲を軽く見回してから、声を落として近づいてくる。
「調査部から回ってきた書類、私も見ました。あの条件、明らかにやりすぎです」
職員の声は、丁寧なのにどこか固かった。
「正式に抗議できますよ」
ミオは一瞬息を止めた。
「……できるんですか」
職員はこくりとうなずいた。
ミオの胸の奥で、押し込めた怒りがまた小さく熱を持つ。
職員は「書面で出せば、記録には残ります」とだけ言って、タブレットを抱え直した。
「記録に残る、ですか」
ミオは繰り返して、それから自販機の前のレンの背中を見た。寝癖のついた頭が、ぼんやり突っ立っている。
(あの人、たぶん「別にいい」で全部通しちゃうんだろうな)
(だったら、あたしが残しとくしかないじゃん)
「……一応、保険はかけとこう」
ミオは小声でつぶやいた。
レンにはまだ言わない。言ったら「面倒くさい」の一言で終わるに決まっている。
職員は小さく頭を下げた。
「私は戻ります。……あの、書面、出しておいてくださいね」
タブレットを抱え直し、早足で廊下の奥へ消えていく。背中が少しだけ急いでいるように見えた。
ミオはその場に立ち止まったまま、かばんからスマホを出した。メモを開く。指が震えていた。
「複数体、攻撃性が高い、本人1名のみ、同行者は外」
打ち込むたび、さっきの常磐の「規定です」が耳の奥で再生された。活字が、画面の上でやけに冷たく並ぶ。
計測担当のトークを開く。『追加審査の条件、書面で見たいです』。送信。既読は、まだつかない。
ミオはスマホをかばんにしまった。しまいながら、もう一度、指の先でメモの文字を確かめるように押さえた。
ミオはかばんを抱え直し自販機の前に立つレンの背中へ歩いていった。レンはポケットから缶コーヒーを取り出して、プルタブを起こしている。ミオが近づいても顔を上げない。
「なあ、審査って10時だっけ」
缶を傾けながら、レンが聞いた。
「5日後だからね。複数体だよ、分かってる?」
ミオは声を低くして返した。レンは「分かってるって」と気のない声で、また缶を傾ける。喉がこくりと鳴っただけだった。
ミオはその横顔を見た。寝癖のついた頭。目は自販機の値段表示をぼんやり眺めている。
(この人、本当に分かってない)




