↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20歳、無職フリーターがダンジョンで迷子になったら、魔物が全員土下座していたらしい  作者: ペンは休み休みもて(ペンもて)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
27/41

面目、丸潰れ




 獣の鼻先が床に触れた。


 そのまま動かない。


 長い毛が床に広がった。


 たてがみの筋がだらりと垂れる。


 耳は後ろへ倒れたままだ。


 金色の目が半分閉じた。


 呼吸だけが背中を静かに上下させる。


 会場がしんと静まり返った。


 壁際の立会人が固まっている。


 資料を持つ指が紙の端を握ったまま離れない。


 記録係が息を呑んだ。


 キーを打つ音が止まってから、もう10秒は経つ。


 計測担当の職員が椅子の背にもたれた。


 調査部の職員が隣と顔を見合わせる。


 どちらも何も言わない。


 第三者の1人がペンを持ち直した。


 手元の資料に何かを書こうとして、やめる。


 指定位置でミオがカメラを胸に抱えた。


「……え、ちょっと待って」


 小声が震えている。


 スマホにコメントが流れる。


《土下座じゃん》


《頭つけたの見えたぞ》


《スーツの人まだ無言で草》


 レンは白線の内側に立っていた。


 ヘルメットは小脇に抱えたまま。


 腕の配線がかすかに引っ張られる。


 指先が胸のセンサーに触れた。


(あっついな、これ)


(つーか、この体勢いつまで続くの)


 獣は床に頭をつけたまま動かない。


 尻尾が一度だけ、小さく揺れた。


(おい、尻尾動いてるぞ)


(そういうのやめろ。調子狂う)


 常磐はまだ何も言わない。


 計測担当のモニターの前で背中を向けている。


 ネクタイの結び目に手をやる気配もない。


(あの人、固まってんのか)


 レンは天井を見た。


 照明がまぶしい。


(ていうか、これ、俺のせいなのか)


(違うよな。多分)


 遠くで、誰かが咳払いをした。


 それきり、また静かになった。


 常磐がモニターから顔を上げた。


「……個体の体調不良の可能性が」


 声は上品なままだった。


 だが、語尾がわずかに滑った。


「環境の変化による一時的な反応、という線も」


 画面にコメントが流れる。


《体調不良(心拍48)》


《環境の変化(開始前は威嚇してた)》


《スーツの人、言い訳が伸びてきた》


(いや、お前が選んだ個体だろ)


 レンは心のなかでだけ突っ込んだ。


 口には出さない。


 常磐はペン先をクリップボードの端に当てた。


「あるいは、計測機器の不具合も考えられます」


 3つ目だ。


 立会人の方をゆっくりと見る。


「ですので、この数値だけで判断はできません」


(それ言ったら試験が成り立たねえだろ)


 常磐の指がネクタイの結び目に触れた。


 立会人の1人が顔を上げかける。


 そのとき椅子に座ったままの計測担当の職員が、口を開いた。


「常磐さん」


 遮るような声だった。


 常磐の肩がぴくりと動く。


 職員はモニターを指でなぞった。


「個体の体温、平熱の範囲内です」


 指が画面を滑る。


「呼吸数、安定。心拍は48。これも異常ではありません」


 職員は顔を上げなかった。


「人間側の数値も同様です。心拍、呼吸、すべて平常値」


 モニターの光が、職員の顔の下半分を照らしていた。


「体調不良を示すデータは、1つもありません」


 職員は指をモニターから離さない。


「計測機器は、今朝、常磐さんのご指示で交換したものです」


 常磐の手がクリップボードの上で止まった。


 職員は画面を指でなぞる。


「交換したあと、動作確認用の個体でも同じ跳ね方を見ています」


 記録係のキーが、ひとつだけ鳴った。


「小型のケージの個体です。十文字さんが横を通っただけで」


 職員は言葉を切る。


「あのとき、私は言えませんでした」


 常磐のペン先が、書式の上で動かない。


 立会人の第三者2人が、資料にペンを走らせる。


 紙をめくる音だけが響く。


 常磐はクリップボードを胸の前に持ったまま、動かない。


 常磐の口がわずかに開いた。


 職員はようやく顔を上げる。


「これは間違いなく、服従反応です」


 声は静かだった。


 だが、試験場の隅まで届いた。


(言い切ったな)


 レンはヘルメットを抱え直した。


(まあ、そうだよな。見りゃ分かる)


 壁際で、第三者の1人が資料にペンを走らせた。


 もう1人が何も言わずに常磐を見ている。


 常磐はクリップボードを持ったまま、立っていた。


 ペン先はまだ欄から外れたままだ。


 ネクタイに手をやる気配もない。


(あの人、今のどのへんが「素人」なんだろ)


 指定位置で、ミオが口元を押さえた。


「やった……」


 声が指のあいだに漏れる。


「やった、やった、やった」


 足踏みがひとつ。


 カメラが小さく跳ねた。


「落ち着け、あたし。落ち着け」


 自分に言い聞かせる声が震えている。


 スマホにコメントが流れる。


《声出てるよ》


《配信者としては満点のリアクション》


《スーツの人、まだモニターの横》


《背中の人、まだ天井見てる》


 ミオがスマホを覗き込んだ。


「同接、14万」


 声が裏返った。


「14万いってます。うそでしょ」


 カメラを握る手に力が戻る。


 第三者が付箋の頁を指でなぞった。


「記録上、この個体が伏せたのは」


 顔を上げる。


「これが初めてということになりますね」


 付箋の頁の上にペンを置く。


 何か書き足そうとして、止めた。


 ペン先が紙の上で止まったままだ。


 記録係が短く添える。


「反応値は、これまでの最大記録の3倍近いままです」


 第三者は獣と頁を交互に見た。


(初めて、ね)


 壁際で、資料を持っていた第三者の1人が、資料を閉じた。


 閉じた音が、静かな試験場に思ったより響く。


 第三者は資料を脇に挟み、一歩前に出た。


「本日の結果を」


 声は落ち着いていた。


「正式な試験記録として提出します」


 壁際のざわめきが、すっと引いた。


 第三者は続けた。


「立会人として、記録の内容を確認しました」


 もう1人の第三者が、黙って頷く。


 調査部の職員2人も、顔を上げた。


 記録係が姿勢を正した。


 椅子が小さくきしむ。


 キーを打つ音が、規則正しく戻ってくる。


 画面の端に文字が増えていく。


 記録係の指が、止まらずに動いていた。


 レンはヘルメットを抱えたまま、立っていた。


(終わったのか。これで)


(まだ10時過ぎだぞ)


 協会の記録用カメラの赤いランプが、点いたままだった。


 誰も止めない。


 常磐はしばらく黙っていた。


 常磐はクリップボードの書式に目を落とした。


 ペン先が『やらせの疑いあり』の欄の上で止まる。


 だが、何も書かない。


 欄は空白のままだった。


 常磐はペンを胸ポケットに差した。


 クリップボードの表紙を閉じる。


 パサリ、と小さな音がした。


 指定位置で、ミオが息を止めた。


 常磐が計測担当の席から離れる。


 革靴の音が、さっきよりゆっくりだった。


 白線の外で足を止める。


 レンを見下ろす形になった。


 スーツの前身頃が、わずかに傾いでいる。


「……認めましょう」


 声は上品なままだった。


「今回だけは、な」


 その部分だけ、妙に力がこもっていた。


(なんでそこで力むんだよ)


 レンはヘルメットを抱え直した。


「べつに、認めてもらわなくてもよかったんすけど」


 声はいつもどおりだった。


 常磐の口元が、一度だけ引きつった。


 何か言いかけて、やめる。


 常磐がレンに背を向けた。


 革靴の音が、出口へ向かってまっすぐに伸びる。


 記録係がキーを打つ手を止めた。


 立会人のほうへ体ごと向き直る。


「記録は、このまま上に回します」


 声は事務的で、よく通った。


 床に伏せたままの獣は動かない。


 尻尾の先だけが、ひとりでに揺れている。


(まだ動いてんのか、あれ)


 指定位置で、ミオがカメラを下ろしかけて止めた。


「……ねえ、これ、もう終わったよね」


 声は限りなく小さかった。


 常磐は出口の手前で足を止める。


 スーツの内ポケットからスマホを取り出した。


 画面を1回だけタップして耳に当てる。


 背筋は伸びたままだった。


「……私です」


 低い声が、静かな試験場にわずかに響く。


「結果が出ました」


 それきり、常磐は黙った。


 スマホを耳に当てたまま、出口の向こうへ消えていく。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。