崩れる姿勢
常磐は答えなかった。
常磐の目がモニターへ向かった。
数字を見る。
それから獣へ戻る。
また、モニターへ。
ペン先は動かない。
(あの人、まばたきしてなくね)
獣はまだ止まっている。
耳を倒したまま。
瞳孔の開いた目をレンに向けたまま。
床に食い込んだ爪がかすかに鳴った。
カチ、カチ、と硬い音。
前足が小刻みに震え始めた。
獣の首がわずかに傾いた。
たてがみの筋がみしりと鳴る。
低く構えたまま、こちらを見上げていた頭が、指1本ぶんほど下がる。
金色の目がレンの胸元あたりまで落ちた。
(あれ、目線下がったな)
首の角度がまた少し変わる。
たてがみが首の後ろで盛り上がったまま、ゆっくりと揺れた。
壁際で第三者の1人が資料を持つ手を下ろした。
「……下がってる」
調査部の職員が隣と目を合わせる。
指定位置でミオがカメラを胸に引き寄せた。
「ねえ、下がってない? 下がってるよね?」
声は震えていた。
《え、頭下げてる?》
《背中の人、まだ天井見てるんだけど》
獣の頭がもう一段下がった。
首の付け根がゆっくりと折れていく。
たてがみの先が床へ向かって垂れた。
レンは小脇のヘルメットを持ち替えた。
獣はその動きに、ぴくりと反応した。
だが姿勢は崩さない。
頭は下がったところで止まった。
壁際で、資料を手にした第三者が付箋の頁を見た。
それから、目の前の獣を見た。
また、頁を見る。
紙を持つ指がわずかに滑った。
隣の第三者が身を寄せた。
「おい、あれ、頭を下げてないか」
「……まだ、途中だ」
「途中って」
「だから、まだ、そう見えているだけだ」
調査部の職員は黙っていた。
腕を組んだまま、獣から目を離せない。
指先だけが二の腕をきつくつかんでいた。
指定位置でミオがカメラを構え直す。
「ねえ、あれ、伏せなかったって言ってたやつだよね」
声は限りなく小さかった。
「3回とも平気だったやつだよね」
画面にコメントが流れる。
《スーツの人、今どんな気持ち?》
《資料と現実が違いすぎる》
《伏せなかった(過去形)》
(別に俺、何もしてねーんだけど)
レンは白線の内側に立っていた。
黄色いヘルメットを小脇に抱えたまま。
軍手はポケットから出していない。
指先が配線に軽く触れる。
センサーは全部、付けたままだ。
(これ、ほんとに試験になってんのか)
獣の頭がまた少し下がった。
鼻先がレンの腰のあたりまで落ちる。
たてがみが首の後ろで波打った。
床まではまだある。
(こっち来んなよ。来てねーけど)
レンは足元の白線を見た。
つま先が線の内側にある。
動いてない。
何も。
(おい、そこで止まれよ)
獣は止まったまま、頭をもう一段下げた。
前足の肘が内側へ折れ始めた。
膝をつくように、ゆっくりと。
爪先が床を離れ、関節が沈む。
たてがみがだらりと垂れた。
尻尾が床に落ちた。
音もなく、毛が床に広がる。
試験場がしんと静まり返った。
(なあ、これ大丈夫なやつか)
遠くでミオの声がした。
「うそ……」
それきり、何も聞こえない。
カチリ、と硬い音がひとつ。
常磐がクリップボードを握り直した音だった。
記録係がパソコンの画面から顔を上げた。
「これ、これまでで一番大きい反応値です」
常磐の指がネクタイの結び目に触れた。
軽く引いた。
もう一度、直す。
ペン先がクリップボードの上で震えていた。
常磐は顔を上げる。
立会人たちをゆっくりと見渡した。
「まだ結果とは言えません」
声は上品なままだった。
「偶然、個体が動きを止めた可能性もあります」
第三者の1人が資料をめくる手を止めた。
常磐はその視線を受け止めて、わずかに顎を引く。
「継続して計測します」
語尾がほんの少しだけ伸びた。
「この程度で判断するのは、協会のやり方ではありません」
ペン先を欄から外して指で回す。
壁際のざわめきが一瞬、小さくなる。
常磐はネクタイに触れた指を下ろした。
常磐が歩き出した。
革靴の音が、さっきより速い。
立会人の前を通り過ぎる。
誰も声をかけない。
常磐は計測担当の椅子の横に立った。
自分でモニターを覗き込む。
背中がわずかに丸まっている。
「心拍」
計測担当が画面を指でなぞる。
「48です」
記録係がキーを叩いた。
「反応値、これまでの最大記録の3倍近いです」
常磐は何も言わなかった。
ペン先は『やらせの疑いあり』の欄から外れている。
外したまま、戻せない。
(あの人、自分の席に戻るの忘れてね?)
指定位置でミオがスマホを覗き込んだ。
「同接13万……」
声が裏返った。
画面にコメントが流れる。
《やらせとか言ってた人、完全に黙ったな》
獣の鼻先が床すれすれで止まった。
毛先がわずかに揺れている。
熱い息が床に落ちて、ほこりを散らした。
(あー、もう)
レンはヘルメットを抱え直した。
腕の配線がかすかに引っ張られる。
(そこまで行くならつけろよ)
床とのあいだは指1本ぶん。
(なに、床と俺のあいだで迷ってんの)
獣の金色の目が、床とレンの顔をゆっくり行き来した。
獣の耳が後ろへ倒れたまま、小刻みに震えた。




