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婚約破棄されて捨てられた令嬢ですが、隣国の冷徹皇帝陛下がなぜか私を離してくれません!?  作者: Atelier Lotus


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第89話 開けてはならない箱

 火の魔法石完成から数日。


 離宮の研究室では、完成した火の魔法石を前に、研究記録の整理が進められていた。


 机いっぱいに並ぶ羊皮紙。


 妖精誘導理論。


 魔粒子誘導。


 魔素循環理論。


 試行錯誤の跡が、一枚一枚の記録に刻まれている。


 クロエはそれらを静かに読み返していた。


 そして、不意にその手が止まる。


「……まさか」


 小さな呟きだった。


 ミアが顔を上げる。


「クロエ様?」


 クロエは答えない。


 研究記録を見つめたまま、遠い昔を思い返していた。


 三十年前。


 魔王討伐の旅。


 魔王城地下最深部。


 そこで見つけた魔王ニコラスの研究室。


 壁一面を埋め尽くす魔法陣。


 積み重ねられた研究資料。


 当時は理解できなかった無数の理論。


 しかし今なら分かる。


 あの研究が、何を目指していたのか。


 クロエは静かに口を開く。


「……もし」


「妖精誘導理論を四属性すべてへ応用したならば」


 研究室が静まり返る。


「火だけではない」


「水」


「風」


「土」


「四属性すべての魔粒子を永久に誘導し続ける術式も、理論上は成立する」


 ミアは息を呑む。


「永久に……」


 クロエはゆっくり頷く。


「魔粒子は魔素を構成する最小単位」


「それを永久に誘導し続ければ」


「魔素は無限に生成され続ける」


 エルンストが静かに呟く。


「……魔素特異点か」


「ああ」


 クロエは苦い表情で頷いた。


「魔王因子じゃ」


 クロエは立ち上がり、黒板へ一つずつ名前を書き記していく。


 ――魔核融合体。


 ――魔素特異点。


 ――魔王因子。


 ――賢者の石。


 ――霊薬エリクシア。


 ――第一物質。


 ――命の水。


 ――哲学者の石。


 ――無限魔力炉。


 ――永久生命機関。



 ミアは驚いたように黒板を見つめる。


「こんなに名前があるんですか?」


「ああ」


 クロエは頷く。


「時代も」


「国も」


「学派も違う」


「ゆえに呼び名も異なる」


「じゃが、本質は一つ」


「永久に魔粒子を誘導し」


「永久に魔素を生み出し続ける究極理論」


「それが魔王因子」


「あるいは永久生命機関じゃ」


 研究室に重い沈黙が流れる。


 もちろん証拠はない。


 これは、一人の学者として辿り着いた仮説に過ぎない。


 それでも。


 妖精誘導理論。


 魔粒子誘導。


 魔素循環理論。


 その三つは、魔王城地下最深部で見た理論と、あまりにも酷似していた。


 その時だった。


『……違う』


 小さく呟いたのはアルだった。


 ミアが振り返る。


「アル?」


 アルは珍しく険しい表情をしていた。


『火の子たちは』


『無理やり集められるのは嫌なんだ』


 リリも静かに頷く。


『風の子たちも同じ』


『みんな、自分で行きたい場所へ行くの』


 ミアは二人の言葉をクロエへ伝える。


 アルは続けた。


『でも魔王は違った』


『逃げられないように縛ったんだ』


『ずっと』


『ずっと』


『無理やり』


 リリは悲しそうに俯く。


『だから妖精誘導じゃない』


『あれは拘束』


『みんな苦しかったと思う』


 クロエは静かに目を閉じる。


「そうか……」


「妖精誘導は共生」


「魔王因子は拘束」


「同じ理論から生まれたとしても、本質はまったく違う」


 ミアは火の魔法石を見つめた。


 自分たちが作った魔法石は、人々を暖めるためのもの。


 魔王因子は、自らの命を永らえるため、世界中の魔粒子を永遠に縛り続けるもの。


 同じ才能。


 同じ理論。


 それでも、その行き着く先は正反対だった。


 やがてミアは静かに尋ねる。


「クロエ様」


「何じゃ」


「実際の魔王ニコラスは、どんな人だったのですか?」


 クロエは遠い記憶を思い返した。


「歴史では暴虐の魔王として語られておる」


「じゃが、わしから見れば違う」


「誰よりも死を恐れた臆病者じゃった」


「だから永遠の命を求めた」


「そして、この知識を人々ではなく、自分自身のためだけに使った」


 一呼吸置き、続ける。


「もっとも」


「あやつが史上最高の魔術師であったことも、また事実じゃ」


「現在の魔術体系の多くも、あやつが築いた」


「魔法陣」


「魔力循環理論」


「属性変換」


「今では世界中の魔術師が当然のように使っておる知識も、その多くはニコラスの研究を礎として発展しておる」


 その言葉を聞き、ミアは白竜皇オルドの言葉を思い出していた。


 ――最後に確認された精霊眼の持ち主は、魔王ニコラス。


 同じ精霊眼。


 同じ才能。


 同じ世界。


 しかし。


 その力を誰のために使うのか。


 その一点だけが、二人の運命を分けた。


 クロエは完成した火の魔法石を見つめ、小さく呟く。


「……わしらは」


「開けてはならぬ箱を開けてしまったのかもしれん」


 研究室は重い沈黙に包まれる。


 だが、その静寂を破ったのはミアだった。


「違います」


 火の魔法石を胸に抱き、真っ直ぐ前を向く。


「私は、この力で寒さに震える人たちを救いたい」


「子どもたちが暖かい部屋で笑って暮らせるようにしたい」


「そのために、この知識を使いたいんです」


 リリは優しく微笑む。


『だから私たちはミアが大好きなんだよ』


 アルも大きく頷く。


『うん!』


『ミアのところは居心地がいいから!』


 クロエは穏やかに微笑んだ。


「そうじゃな」


「知識に善悪はない」


「それを使う者の心が、歴史を決めるのじゃ」


 机の上では、火の魔法石が静かに紅く輝いていた。


 それは人を救う希望にもなる。


 世界を滅ぼす災厄にもなる。


 未来を決めるのは知識ではない。


 その知識を手にした者の心だった。

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