第86話 空白の器
研究開始から二週間。
離宮の研究室では、今日も朝早くから三人が古い魔法書と向き合っていた。
火の魔粒子を阻んでいたのは、魔水晶に残る僅かな魔素。
その最後の壁を越える方法を求め、三人は今日も膨大な古文書を読み漁っていた。
机の上には年代も著者も異なる文献が山のように積まれている。
魔石。
魔水晶。
古代魔術。
少しでも手掛かりになりそうな記述を、一冊ずつ丁寧に読み進めていく。
『難しい本ばっかりだね』
リリが羊皮紙の上へちょこんと腰掛ける。
『字がいっぱいで眠くなるぞ』
アルは大きくあくびをした。
ミアは思わず苦笑する。
「でも、この中に答えがあるかもしれないから」
『頑張れー!』
二人は羽をぱたぱたさせながら応援した。
「……見つからぬのう」
クロエは一冊の本を閉じ、小さく息を吐く。
「魔水晶について記された文献は数多く残っておる」
「じゃが、その多くは性質を記したものばかりじゃ」
「肝心の生成方法は、ほとんど失われておる」
エルンストも静かに頷いた。
「古代技術だからな」
「技術だけでなく、記録そのものも歴史の中へ消えたのだろう」
研究室は再び静寂に包まれる。
聞こえるのは、ページをめくる音だけだった。
その時。
「……これじゃ」
クロエの手が止まる。
一冊の古びた文献。
表紙は擦り切れ、題名すら判読できないほど風化している。
慎重にページをめくり、一文を見つけた瞬間――。
クロエの瞳が大きく見開かれた。
「見つけたぞ……」
ミアとエルンストが顔を上げる。
「何があったんですか?」
クロエは静かに、その一節を読み上げた。
「――魔水晶とは、魔素が完全に失われた空白の器である」
研究室が静まり返る。
ミアはその言葉をゆっくりと繰り返した。
「空白の……器」
「ああ」
クロエは静かに頷く。
「昨日、お主が見つけた残留魔素」
「その存在を、古代の魔術師もすでに理解しておったのじゃ」
ミアは精霊眼を開き、机の上の魔水晶を見つめた。
そこには肉眼では決して見えないほど微かな魔素が残っている。
「つまり……」
「私たちが魔水晶だと思っていたものは、本当の意味では魔水晶ではなかったんですね」
「そういうことじゃ」
クロエは力強く頷く。
「魔素を使い切るだけでは足りぬ」
「一切の魔素が存在しない」
「完全な空白」
「そこまで到達して初めて、真の魔水晶となる」
『あっ!』
アルが突然声を上げた。
『だから火の子たち、最後だけ嫌そうに帰っちゃったのか!』
リリも何度も頷く。
『うんうん!』
『まだ誰かいるよーって言ってるみたいだったもん!』
ミアは二人を見つめる。
「そうだったの?」
『うん!』
『空っぽじゃないから入れなかったんだよ!』
ミアはその言葉をクロエへ伝えた。
クロエは感心したように目を細める。
「やはり妖精は魔粒子そのものの感覚を持っておる」
「文献と、お主たちの証言が一致したのう」
エルンストは腕を組み、しばらく考え込む。
「ならば問題は一つだ」
「どうすれば残留魔素をなくせる」
クロエも静かに頷く。
「通常の術式では難しい」
「魔力を流せば流すほど、最後に僅かな魔素が残ってしまう」
その時だった。
エルンストが静かに口を開く。
「……発想を変えよう」
二人が振り向く。
「魔素を消すのではない」
「最後の一粒まで使い切る」
クロエの瞳が鋭く光る。
「魔素完全消費術式……!」
「ああ」
エルンストは一枚の羊皮紙を広げた。
「これまでの魔法陣は、必要な分だけ魔素を消費するよう設計されている」
「だが今回は違う」
「目的は魔法を発動することではない」
「魔素を一粒残らず使い切ることだ」
そう言うと、迷うことなく新たな魔法陣を書き始めた。
一本一本、慎重に線を引く。
魔素を最後まで循環させる閉回路。
終端で一切滞留させない循環構造。
従来の魔法陣とは根本から異なる、新しい術式だった。
クロエもすぐ隣へ立ち、次々と数式を書き加えていく。
「ここへ循環補助式を追加する」
「終端の流速を一定に保つ」
「魔素が一か所でも留まれば意味がない」
二人の議論は止まらない。
ミアは精霊眼で術式を見つめ、小さく頷いた。
「今までで一番いいです」
「魔素が最後まで流れています」
「残っている魔素も、ほとんど見えません」
クロエは思わず笑みを浮かべた。
「やはり精霊眼は凄いのう」
「わしらには見えぬ世界を、お主は見ておる」
ミアは少し照れながら笑う。
「私は見えているだけです」
「理論を作っているのは、お二人ですよ」
クロエはゆっくり首を横へ振った。
「違う」
「お主が観測し」
「陛下が術式を組み」
「わしが理論をまとめる」
「そして妖精たちが、その答え合わせをしてくれる」
「この五人だからこそ、この研究はここまで来られたのじゃ」
その言葉に、ミアはリリとアルを見つめた。
二人は照れくさそうに笑う。
『えへへ』
『俺たちも研究員だな!』
研究室に穏やかな笑いが広がった。
やがて、一枚の羊皮紙が完成する。
それは魔法を発動するためではない。
本当の意味で「空白の器」を生み出すためだけに設計された、新たな術式だった。
エルンストは静かに完成した術式を見つめる。
「これで終わりだ」
クロエも静かに頷く。
「ああ」
「次の実験が、本当の最後になる」
『今度こそ成功だ!』
アルが拳を突き上げる。
『火の子たちも待ってるよ!』
リリも元気よく羽を広げた。
ミアは新しい魔水晶を両手でそっと机の中央へ置く。
あと一歩。
三人と二人が追い求めてきた世界初の火の魔法石は、もうその手の届く場所まで来ていた。




