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婚約破棄されて捨てられた令嬢ですが、隣国の冷徹皇帝陛下がなぜか私を離してくれません!?  作者: Atelier Lotus


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第85話 最後の壁

 研究を始めてから二週間。


 離宮の研究室には、今日も朝早くから三人の姿があった。


 机の上には、何十枚もの羊皮紙が積み重なっている。


 幾度となく書き直された魔法陣。


 失敗と考察がびっしりと書き込まれた実験記録。


 壁一面の黒板には、消しては書き、書いては消した数式が幾重にも残されていた。


 部屋の隅には、実験で砕けた魔水晶の欠片が箱いっぱいに保管されている。


 その一つ一つが、三人の積み重ねてきた努力の証だった。


「第二十五試験を開始する」


 クロエの静かな声が研究室に響く。


 エルンストは魔法陣の中央へ、新しく精製した魔水晶をそっと置いた。


 魔素を使い切った魔水晶。


 その周囲には、妖精誘導理論を基に改良を重ねた魔法陣が描かれている。


「始めよう」


「ああ」


 エルンストは静かに魔力を流し始めた。


 魔法陣が淡い紅色の光を放つ。


 その瞬間、研究室中に漂っていた火の魔粒子が、まるで導かれるように魔法陣へ集まり始めた。


 ミアは精霊眼を開く。


 無数の火の魔粒子が、美しい螺旋を描きながら魔水晶へ流れ込んでいく。


 以前とは明らかに違う。


 流れは穏やかで、淀みも乱れもない。


「順調です」


 ミアは小さく呟いた。


「火の魔粒子が、とても安定しています」


 クロエも静かに頷く。


「そのまま維持じゃ」


 赤い光は少しずつ魔水晶の中心へ集まっていく。


 一粒。


 また一粒。


 火の魔粒子がゆっくりと蓄積されていく様子に、三人は固唾を呑んで見守った。


 研究室は静寂に包まれる。


 あと少し。


 あと少しで定着する。


 誰もがそう確信した、その瞬間だった。


「……っ!」


 ミアの表情が変わる。


「どうした!」


 エルンストが即座に声を上げる。


「止めてください!」


 鋭い声が研究室へ響いた。


 エルンストは迷うことなく魔力の供給を止める。


 魔法陣の光が静かに消えていく。


 しかし、一瞬遅かった。


 魔水晶へ集まっていた火の魔粒子は、何かに弾かれたように一斉に四方へ散ってしまう。


 赤い光は霧のように消え去り、魔水晶は再び透明な結晶へ戻った。


 静寂。


 誰も言葉を発しない。


「……またじゃな」


 クロエが小さく息を吐く。


 これで何度目の失敗だろう。


 理論は正しい。


 魔法陣も間違っていない。


 それでも最後の最後で、火の魔粒子は定着を拒んでしまう。


 ミアは黙ったまま魔水晶を見つめていた。


「……違います」


 その一言に、クロエが振り返る。


「どうした?」


 ミアは精霊眼を開いたまま、魔水晶を指差した。


「まだ残っています」


「何がじゃ?」


「魔素です」


 クロエとエルンストは顔を見合わせた。


「魔素……?」


 ミアは静かに頷く。


「確かに魔石の魔素は使い切っています。」


「でも、本当の意味で空っぽにはなっていません。」


「魔水晶の内側に、本当に僅かな魔素が残っています。」


 クロエは目を見開いた。


「残留魔素……」


「はい。」


「とても小さいので、普通なら誰も気付きません。」


「でも、その残った魔素が、新しく入ろうとする火の魔粒子を押し返しています。」


 研究室は再び静まり返る。


 エルンストは魔水晶を手に取り、静かに見つめた。


「我々には見えない。」


「ああ。」


 クロエも苦笑する。


「精霊眼でなければ決して観測できぬ世界じゃ。」


 ミアはゆっくりと言葉を続けた。


「水を入れた瓶と同じなんです。」


「底に少しだけ水が残っていると、新しい水は入りにくくなりますよね。」


「魔水晶も同じです。」


「まだ完全な空になっていません。」


 その言葉を聞いた瞬間。


 クロエは勢いよく黒板の前へ歩み出た。


 チョークを走らせる。


 大きく書かれた文字。


 ――残留魔素。


 さらに、その下へ力強く書き加える。


 ――完全な空白の器。


「そうか……。」


 クロエは震える声で呟いた。


「わしらは、魔石の魔素を使い切ることだけを考えておった。」


「じゃが、本当の課題は、その先にあったのじゃ。」


 エルンストも静かに頷く。


「完全に空となった魔水晶。」


「そこまで到達しなければ、火の魔粒子は定着しない。」


 ミアは小さく微笑んだ。


「あと少しです。」


「本当に、あと少し。」


 クロエはゆっくりと頷く。


「そうじゃ。」


「理論は間違っておらぬ。」


「最後に残ったこの壁さえ越えれば……。」


 三人は机の上の魔水晶を見つめた。


 あと一歩。


 世界初の火の魔法石は、すぐその先まで迫っていた。

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