第5話 婚約破棄
王城へ到着したミアは、侍従に案内されながら謁見の間へ向かっていた。
長い廊下を歩く。
胸の奥の不安は消えない。
むしろ王城へ近付くほど強くなっていく。
まるで、この先で何か取り返しのつかないことが待っているとでもいうように。
『帰ろうぜ』
アルがぼそりと呟いた。
「そんなことできないよ」
ミアは困ったように笑う。
『でも嫌な予感がする』
リリも不安そうに羽を震わせていた。
「大丈夫」
ミアはそう答えた。
そう信じたかった。
やがて大きな扉の前へ辿り着く。
侍従が一礼する。
「ミア・ランベルト様をお連れしました」
重厚な扉がゆっくりと開かれた。
ミアは一歩足を踏み入れる。
そして。
その瞬間。
胸の奥が冷たくなった。
国王アレクサンダーがいた。
王妃エレノアがいた。
第二王子ヘンリーがいた。
そして。
父と母がいた。
二人はすでに国王の傍らに控えていた。
呼び出されたばかりではない。
かなり前からここにいたのだろう。
さらに。
エミリーまでいた。
ヘンリーの近くに立つ妹もまた、先にこの場へ呼ばれていたことが一目で分かった。
全員が揃っていた。
まるで最初からミアを待っていたかのように。
いや。
実際に待っていたのだろう。
父も母もエミリーも、この場で何が告げられるのか知っているような顔をしていた。
その光景を見た瞬間。
ミアは悟る。
これは普通の呼び出しではない。
何かがおかしい。
誰もが何かを知っていて、自分だけが知らされていない。
そんな疎外感が胸を締め付けた。
「ミア・ランベルト」
国王アレクサンダーが静かに口を開く。
「面を上げよ」
ミアは言われるまま顔を上げた。
誰も笑っていない。
父も。
母も。
エミリーも。
そしてヘンリーも。
重苦しい沈黙が広間を支配していた。
心臓が嫌な音を立てる。
嫌な予感が止まらない。
そしてその予感は、きっと良い知らせではないのだと本能が告げていた。
「本日は重要な話がある」
国王の声が響く。
その後。
ヘンリーが一歩前へ出た。
ミアは婚約者を見つめる。
幼い頃から憧れていた人。
将来を共に歩むはずだった人。
そのヘンリーはミアと目を合わせようとしなかった。
ただ俯き加減に立っている。
その姿を見た瞬間。
ミアの胸が締め付けられた。
これから告げられる言葉を、彼自身も望んでいないのかもしれない。
そんな淡い期待が一瞬だけ胸をよぎる。
「ミア」
ヘンリーが口を開く。
聞き慣れた声。
けれど今日は妙に遠く感じた。
「私は――」
一度言葉を切る。
そして。
「君との婚約を破棄する」
世界が止まった。
何を言われたのか理解できない。
耳がおかしくなったのだろうか。
「……え?」
ようやく漏れた声は情けないほど小さかった。
「君との婚約は本日をもって解消する」
ヘンリーは繰り返した。
容赦なく。
逃げ道を塞ぐように。
ミアは言葉を失った。
頭が真っ白になる。
理解が追いつかない。
だが胸の奥では、先ほどから鳴り続けていた嫌な予感が現実になったことだけは分かってしまった。
「ど……どうして……?」
震える声で尋ねる。
ヘンリーは答えなかった。
代わりに王妃エレノアが口を開く。
「ヘンリーの新たな婚約者はエミリーです」
ミアの視線がゆっくりと妹へ向く。
エミリーは俯いていた。
申し訳なさそうな顔をしている。
だが。
次の瞬間、エミリーが小さく唇を開いた。
「……お姉ちゃん、ごめんなさい」
震える声だった。
しかし、その言葉は止まらない。
「最初は断ろうと思ったの。でも……」
エミリーはぎゅっと胸元で手を握る。
「ヘンリー様と過ごすうちに、私……」
そこで一度目を閉じた。
そして覚悟を決めたように顔を上げる。
「私も、ヘンリー様のことが好きになってしまったの」
ミアの瞳が揺れる。
エミリーは涙ぐみながら続けた。
「お姉ちゃんの婚約者だって分かってた。分かってたのに……」
声がかすれる。
「私、欲しくなっちゃったの」
広間が静まり返る。
あまりにも残酷な告白だった。
「そんな……」
ミアは一歩後ずさった。
エミリー。
大切な妹。
守りたかった妹。
その妹が。
自分の婚約者を望んだ。
頭が追いつかない。
助けを求めるように父を見る。
「お父様……」
父は苦しげに眉を寄せた。
「ミア……これは父としても辛い決断だった」
「え……?」
思わず声が漏れる。
父は重い息を吐く。
「だが、お前を王家へ嫁がせることは難しいと判断された」
「どういう……ことですか……?」
「お前の顔の火傷は消えない。王子妃となれば常に人前へ立つことになる」
ミアの肩が震えた。
父は目を伏せたまま続ける。
「それに、お前は幼い頃から妖精が見えると言っていただろう」
その言葉にミアは息を呑む。
「周囲からは変わった子だと思われていた。王家を支える立場になるには荷が重いと……そう判断されたのだ」
まるで他人事のような説明だった。
母もそこで顔を上げる。
目には涙が滲んでいた。
「ミア、ごめんなさい」
震える声だった。
「私たちだって悩んだのよ。でも、お父様の言う通りなの」
「お母様……」
「貴方は優しい子。でも王子妃という立場はあまりにも厳しいわ」
母は涙を拭う。
「傷跡のことで心ない言葉を向けられるかもしれない。妖精の話だって、きっと笑われる」
その言葉は慰めではなかった。
現実を突き付ける刃だった。
「だから……これも貴方のためなの」
誰も助けてくれない。
誰も味方してくれない。
ミアだけが何も知らなかった。
ミアだけが最後まで信じていた。
「待ってください……!」
思わず声を上げる。
涙が滲む。
「私は頑張ってきました……!」
礼儀作法。
歴史。
政治。
外国語。
ダンス。
刺繍。
音楽。
王族の婚約者としての教育。
全て。
全てヘンリーのためだった。
将来、王家を支える立場になるためだった。
それらの日々が、今にも砂のように指の間から零れ落ちていく気がした。
「ずっと……頑張ってきたんです……!」
声が震える。
涙が零れる。
けれど。
誰も何も言わない。
国王も。
王妃も。
父も。
母も。
ヘンリーも。
沈黙していた。
その沈黙が何より残酷だった。
ミアはようやく理解する。
全員が了承しているのだ。
全員が納得しているのだ。
誰一人として。
ミアの味方ではない。
『ミア……』
リリが震えた声を出す。
アルも拳を握り締めていた。
だが妖精には何もできない。
ミアは俯いた。
涙が床へ落ちる。
努力は足りなかったのだろうか。
もっと頑張れば良かったのだろうか。
もっと綺麗だったら。
もっと優秀だったら。
傷跡がなかったなら。
違う未来があったのだろうか。
そんな考えが頭を巡る。
そして。
唇から小さく零れ落ちた。
「どうせ……私なんて……」
誰にも届かないほど小さな声だった。
だが。
その瞬間。
少女が信じていた世界は、音もなく崩れ去ったのである。




