第73話 研究の始まり
火の魔法石という新たな可能性が生まれた翌日。
離宮の一室では、朝から使用人たちが慌ただしく動き回っていた。
大きな机が運び込まれ、壁一面には黒板が設置される。
本棚には魔法学や錬金術に関する書物がずらりと並び、薬品棚や実験器具、魔水晶を保管する専用箱、さらに様々な魔法陣を書き記すための大きな羊皮紙まで用意されていた。
昨日まで応接室だった部屋は、わずか半日で本格的な研究室へと姿を変えていた。
「これで一通り揃いました」
侍女が一礼すると、クロエは満足そうに頷く。
「ご苦労じゃ」
部屋を見渡したミアは、思わず目を輝かせた。
「すごい……」
まるで宮廷魔法研究所そのものだった。
エルンストも室内を見回し、小さく頷く。
「十分だ」
「ここなら研究に集中できる」
その時だった。
ミアの肩に乗っていたリリが嬉しそうに飛び立った。
『わぁー! 広い広い!』
アルも本棚の上へ飛び乗る。
『本ばっかりだな』
『難しそうだ』
二人は興味津々に研究室の中を飛び回る。
もちろん、その姿が見えているのはミアだけだ。
クロエはエルンストとミアの前へ立ち、静かに告げた。
「では、本日より正式に火の魔法石研究を開始する」
その言葉に、ミアは自然と背筋を伸ばす。
「目標は一つ」
「火のエレメントだけを宿した新たな魔石――魔法石の完成じゃ」
部屋の空気が引き締まった。
「完成すれば、魔法が使えぬ者でも暖房魔道具を扱える可能性が生まれる」
「寒さに苦しむ民を救えるやもしれん」
クロエは静かに微笑む。
「まさに帝国の未来を左右する研究じゃ」
ミアは胸の前で拳を握った。
市場で見た人々。
裏路地で出会った子どもたち。
冷え切った家で震えていた母子。
あの光景を、もう二度と繰り返したくない。
「必ず成功させましょう」
「ああ」
エルンストも力強く頷いた。
『もちろん!』
『俺たちも協力するぞ!』
リリとアルも胸を張る。
ミアは嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう」
「みんなで頑張ろうね」
その様子を見たエルンストが尋ねる。
「妖精たちか」
「はい」
ミアは頷く。
「二人とも、とても張り切っています」
クロエは少しだけ残念そうに笑った。
「相変わらず見えぬのが惜しいのう」
妖精たちは顔を見合わせる。
『この人、絶対いい人だよな』
『見えないのは仕方ないさ』
そのやり取りに、ミアは思わず吹き出しそうになる。
しかし、その直後だった。
クロエが小さく咳払いをした。
「……とはいえ」
「まずは問題が一つある」
ミアは首を傾げる。
「問題ですか?」
「うむ」
クロエは真剣な表情で頷いた。
「ミアよ」
「はい」
「お主、魔法の知識はどのくらいある?」
ミアは少し考え込んだ。
「えっと……」
「火、水、風、土の四つのエレメントがあることは知っています」
「精霊眼で見えますし」
「それから……」
困ったように笑う。
「……それくらいです」
部屋が静まり返った。
クロエは額に手を当て、小さくため息をつく。
「つまり……」
「ほぼ何も知らんということじゃな」
「はい……」
申し訳なさそうに肩をすくめるミア。
伯爵令嬢として育ったとはいえ、ローズフィールド王国では魔法学は軽視されていた。
ましてミア自身は「魔法が使えない」と判定されていたため、本格的に学ぶ機会などなかったのである。
『えっ』
『知らなかったのか』
リリとアルも目を丸くした。
クロエは苦笑しながら言う。
「研究とは知識の積み重ねじゃ」
「土台がなければ、新しい理論は生まれん」
そう言うと、人差し指を立てた。
「というわけで――」
「まずは基礎からじゃ」
ミアはきょとんとする。
「基礎……ですか?」
「そうじゃ」
クロエは本棚から一冊の分厚い本を取り出した。
表紙には金文字で大きく刻まれている。
――『魔法学基礎理論』
「こ、こんなに厚いんですか……?」
思わず引きつるミア。
リリも本を見上げて顔をしかめた。
『うわぁ……』
『読むだけで眠くなる』
アルも真顔で頷く。
『俺なら三ページで寝る』
ミアは思わず吹き出した。
「ふふっ」
「どうした?」
エルンストが尋ねる。
「い、いえ……なんでもありません」
妖精たちとのやり取りを説明できるはずもなく、ミアは慌てて首を振った。
クロエはにやりと笑う。
「安心せい」
「全部覚えてもらう」
「えぇっ!?」
研究室にミアの悲鳴が響いた。
その様子を見て、エルンストは珍しく口元を緩める。
「私も教えよう」
「実際に魔法を見た方が理解しやすい」
「ありがとうございます!」
ミアは嬉しそうに頭を下げた。
魔法理論はクロエ。
実技はエルンスト。
そして、エレメントを直接観察できる精霊眼と、研究に協力する妖精たち。
これ以上ない研究体制が整った。
クロエは黒板の前へ立ち、チョークを手に取る。
「では第一講じゃ」
「――魔法とは何か」
黒板へ最初の文字が刻まれる。
こうして――
未来の皇妃ミアの魔法学講義が始まった。
それは後に帝国の歴史を変える大発明へと繋がる、長くも実りある研究の日々の始まりだったのである。




