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婚約破棄されて捨てられた令嬢ですが、隣国の冷徹皇帝陛下がなぜか私を離してくれません!?  作者: Atelier Lotus


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第70話 皇帝の苦悩

 母子の家を後にしたエルンストとミアは、宿への帰り道を静かに歩いていた。


 夕暮れの帝都。


 西の空は茜色に染まり、街には夕餉の支度をする香りが漂っている。


 行き交う人々の表情は穏やかだった。


 だが、二人の間に会話はない。


 ミアの脳裏には、先ほど訪れた小さな家の光景が焼き付いて離れなかった。


 寒さに震える幼い少年。


 自分は寒さを耐え、たった一枚の毛布を我が子へ掛ける母親。


 そして――


『冬が来るのが怖いんです』


 あの一言が、何度も胸の奥で繰り返されていた。


 長い沈黙の末、エルンストが静かに口を開く。


「私は即位して以来、寒冷対策を続けてきた」


 ミアは顔を上げた。


 エルンストは前を向いたまま、淡々と語り始める。


「薪の備蓄を増やした」


「石炭の流通も整えた」


「寒冷地への支援金も増額した」


「税制も一部見直した」


 一つひとつは確かな成果を生んだ。


 凍死者は減った。


 飢える者も減った。


 冬を越せる人々は、以前より確実に増えている。


 それでも――。


「足りない」


 短い一言だった。


 その言葉には、皇帝として背負い続けてきた苦悩が滲んでいた。


「帝国は広い」


「支援できる予算にも限界がある」


「すべての村へ十分な薪や石炭を届けることはできない」


 ミアは黙って耳を傾ける。


 エルンストは静かに続けた。


「さらに、貴族たちの利権もある」


「薪を扱う商会」


「鉱山を管理する領主」


「石炭を流通させる商人」


「皆、それぞれの生活と利益を抱えている」


「価格だけを強引に下げれば、市場そのものが崩壊しかねない」


 皇帝だからといって、命令一つですべてを変えられるわけではない。


 民の生活。


 経済。


 流通。


 国家は無数の歯車が噛み合うことで成り立っている。


 一つを動かせば、別の場所へ必ず影響が及ぶ。


「民を救おうとすれば、別の誰かを苦しめることもある」


 エルンストは自嘲気味に笑った。


「皇帝とは、難しいものだ」


 その横顔は、どこか寂しげだった。


 ミアは初めて知る。


 冷徹皇帝と呼ばれるこの人が、どれほど多くのことを考え、悩み続けてきたのかを。


 どれほど民を想い、それでも救い切れない現実に苦しんできたのかを。


「陛下……」


 小さく呟く。


 エルンストは穏やかに微笑んだ。


「私は無力だ」


「皇帝であっても、すべての民を救うことはできない」


 その言葉は、自分自身へ言い聞かせているようにも聞こえた。


 ミアはゆっくりと首を横へ振る。


「そんなことはありません」


 エルンストが足を止める。


「陛下は今も救おうとしています」


「悩んで、考えて、それでも諦めずに歩き続けています」


「だから私は、そのお手伝いをしたいんです」


 未来の皇妃として。


 この人の隣に立つ者として。


 一人でも多くの人が笑顔で冬を越せる国を、一緒につくりたい。


 その想いは、もう揺らぐことはなかった。


 エルンストは少しだけ目を見開き、やがて穏やかに微笑む。


「ありがとう」


 その一言だけだった。


 だが、その短い言葉には、心からの感謝が込められていた。


 宿の灯りが見えてくる。


 夜の帳が、ゆっくりと帝都を包み始めていた。


 この日、二人が見た現実。


 そして交わした言葉。


 それらは一つの小さな着想となり、やがて帝国中の冬を変える、大きな希望へと繋がっていく。


 まだ、この時の二人は知る由もなかったのである。

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