第66話 帝都の街並み
翌朝。
お忍び用の庶民服へ着替えたエルンストとミアは、離宮の裏門から静かに皇宮を後にした。
見送るのはクロエただ一人。
「お気を付けください」
「影武者のことは任せておけ」
エルンストが静かに頷く。
「ああ、頼んだ」
二人はそのまま帝都の大通りへと歩き出した。
帝都シュヴァルツブルク。
ヴァイスラント帝国最大の都市であり、百万人を超える人々が暮らす帝国の中心地である。
朝の街は活気に満ちあふれていた。
「いらっしゃい!」
「焼きたてのパンだよ!」
「今日採れた新鮮な野菜だ!」
商人たちの威勢の良い声が大通りへ響き渡る。
露店には色鮮やかな果物や野菜、焼き菓子や雑貨が所狭しと並び、多くの人々が足を止めて品物を眺めていた。
大道芸人が子どもたちを笑わせ、その隣では吟遊詩人が美しい竪琴を奏でている。
街全体が、生き生きとした活気に包まれていた。
「わぁ……」
ミアは思わず感嘆の声を漏らした。
目に映るものすべてが新鮮だった。
「すごいです……」
「こんなに賑やかな街、初めて見ました」
ローズフィールド王国の王都とはまた違う。
帝都には、人々が力強く生きる息吹が感じられた。
露店を覗き込み、可愛らしい小物を見つけては目を輝かせる。
焼きたてのパンの香ばしい匂いに思わず足を止めそうになり、行き交う人々の笑顔を見ては自然と頬が緩んだ。
「陛……」
危うく呼びそうになり、慌てて口を押さえる。
「……エルンさん」
小さな声で呼び直すと、エルンストはわずかに口元を緩めた。
「その方が自然だ」
「はい」
ミアも照れくさそうに笑う。
恋人でも夫婦でもない。
それなのに夫婦を装って街を歩いている。
なんだか少しだけくすぐったい気持ちになった。
しばらく歩いていると、ミアはふと首を傾げる。
「あれ……?」
何かが足りない。
いつも聞こえてくる賑やかな声が、今日は聞こえなかった。
『ミア!』
『腹減ったー!』
そんな元気な声が今日はない。
「……そうでした」
ミアはようやく思い出した。
リリとアルはいない。
二人は今頃、皇宮で自分たちの影武者を務めているのだ。
そのことに気付いた瞬間だった。
「…………」
胸がどくんと大きく鳴った。
(私……)
(陛下と二人きりなんだ……)
思い返せば、出会ってから今日まで。
二人だけで行動したことは一度もない。
いつもクロエがいた。
リリとアルがいた。
誰かが必ずそばにいてくれた。
けれど今日は違う。
隣を歩いているのはエルンストただ一人。
それを意識した途端、胸の鼓動が急に速くなった。
(ど、どうしましょう……)
(急に意識してしまいます……)
歩幅までぎこちなくなる。
手をどこに置けばいいのか分からない。
視線も落ち着かない。
そんなミアの様子に気付いたのか、エルンストが静かに声を掛けた。
「どうした」
「い、いえ!」
ミアは慌てて首を横へ振る。
「な、何でもありません!」
あまりにも慌てた返事に、エルンストは少しだけ不思議そうな表情を浮かべた。
「そうか」
それ以上は何も聞いてこない。
その優しさが、かえってミアの胸を高鳴らせる。
(落ち着いて……)
(落ち着いて、ミア……)
何度も自分へ言い聞かせる。
しかし、心臓はまるで言うことを聞いてくれなかった。
二人はどこか照れくさい空気をまとったまま、ゆっくりと帝都の大通りを歩いていく。
この時の二人はまだ知らない。
華やかで活気あふれる帝都の裏側に、寒さと貧しさに苦しむ人々の暮らしがあることを。
そして、その現実が二人の価値観を大きく変えることになるとは、まだ知る由もなかったのである。




