第65話 庶民の服
影武者作戦が正式に決まった翌日。
離宮の一室では、お忍び視察へ向けた最後の準備が進められていた。
「では、お二人はこちらへ」
クロエに案内され、エルンストとミアは隣室へ入る。
部屋には、質素ながら清潔な衣服がいくつも並べられていた。
木綿のシャツ。
麻の上着。
丈夫な革靴。
飾り気のないワンピース。
どれも帝都の庶民が日常的に身に着けている、ごく普通の衣服である。
「こちらが視察用に用意した庶民服です」
クロエが一着ずつ手に取りながら説明する。
「皇帝陛下のお顔を知る者はそう多くありません。しかし、その豪華な衣装では一目で高貴な身分と分かってしまいます」
「今回は目立たぬことが何より大切です」
エルンストは静かに頷いた。
「分かった」
ミアも生成り色のワンピースを手に取る。
「なんだか新鮮ですね」
伯爵令嬢として育ったミアも、このような服を着る機会はほとんどなかった。
まして皇宮へ来てからは、美しいドレスばかりである。
庶民服を手にしているだけで、不思議と胸が弾んだ。
「では、着替えてまいります」
ミアは侍女とともに別室へ向かい、エルンストも隣の控室で着替えを済ませた。
しばらくして、先に戻ってきたのはエルンストだった。
黒い麻の上着に白いシャツ。
動きやすいズボンと革靴。
どこにでもいる青年の服装。
――そのはずだった。
立っているだけで様になっている。
背筋は真っ直ぐに伸び、隙のない立ち姿。
皇帝として培われた威厳は、質素な服に着替えても隠しきれなかった。
クロエは思わず苦笑する。
「服装は庶民でも、漂う雰囲気は皇帝陛下そのものですな」
「そうか」
「もう少し肩の力を抜いてください」
エルンストは少し考え、意識して肩の力を抜く。
「……これでどうだ」
「先ほどよりは良くなりました」
クロエは頷く。
「ですが、まだ少し真面目すぎますな」
その時だった。
部屋の扉が静かに開く。
「お待たせしました」
ミアが姿を現した。
淡い生成り色のワンピース。
白いエプロン。
髪は後ろでひとつにまとめられ、宝飾品は何一つ身に着けていない。
どこにでもいる町娘。
そのはずだった。
エルンストの動きが止まる。
クロエも思わず目を細めた。
「よくお似合いですな」
ミアは照れくさそうに裾を摘まむ。
「変ではありませんか?」
「いや」
エルンストは静かに首を横へ振った。
「よく似合っている」
短い言葉。
だが、その一言には飾りのない本心が込められていた。
ミアの頬がほんのり赤く染まる。
「ありがとうございます」
嬉しそうに微笑むその姿を見て、エルンストはわずかに視線を逸らした。
普段とは違う装いだからだろうか。
いつもの皇妃候補としての姿とは違い、年頃の町娘らしい可憐さが目を引いた。
一方のミアもまた、胸の鼓動が少し早くなるのを感じていた。
(陛下……格好いい)
豪華な正装とは違う。
庶民服を着た姿は、不思議と親しみやすく、それでいて凛々しかった。
思わず見惚れてしまい、慌てて視線を逸らす。
二人の間に、少しだけ照れくさい沈黙が流れる。
そんな二人を見て、クロエはそっと口元を緩めた。
(若いのう)
しかし、その空気を壊したのは妖精たちだった。
『おぉー!』
『似合うじゃん!』
リリとアルが嬉しそうに飛び回る。
もちろん、その姿はミアにしか見えていない。
『ミア、完全に町娘だね!』
『いや、町娘役なんだから当たり前だけどな』
アルが笑う。
ミアは思わず吹き出した。
「ふふっ」
「どうした?」
エルンストが不思議そうに尋ねる。
「い、いえ。何でもありません」
ミアは慌てて首を振った。
妖精たちのことは説明できない。
クロエは軽く咳払いをする。
「では最後に確認です」
「本日より、お二人は皇帝でも未来の皇妃でもありません」
「帝都で暮らす、ごく普通の若い夫婦として行動していただきます」
「夫婦……ですか」
ミアの頬がさらに赤くなる。
エルンストもわずかに咳払いをした。
「仮の身分だ」
「……はい」
ミアは小さく頷いた。
こうして二人は豪華な皇族の衣装を脱ぎ、一人の庶民として帝都へ踏み出す準備を整えた。
誰にも正体を知られることなく。
民の本当の暮らしを知るために。
皇帝と未来の皇妃による、お忍び視察が、いよいよ始まろうとしていたのである。




