第63話 視察の提案
竜皇妃エイルが帰ってから数日後。
皇宮は再び普段の静けさを取り戻していた。
もっとも。
ミアの心は静かではなかった。
窓際に立ち、遠くの空を見上げる。
白竜皇オルドに認められた。
婚約も正式に結ばれた。
未来の皇妃となることも決まった。
それは本来、喜ぶべきことだった。
だが、ミアの胸には一つの想いが引っ掛かっていた。
「私……何も知らない」
帝国のこと。
民の暮らしのこと。
地方で人々がどのように生き、何に困り、何を願っているのか。
未来の皇妃になるというのに、自分は何一つ知らない。
それでは駄目だと思った。
民のために何かをしたいのなら。
まずは民を知らなければならない。
「……」
ミアは小さく拳を握る。
何かをしたい。
誰かの役に立ちたい。
けれど、そのためには現実を知らなければ始まらない。
『また考えてるな』
アルが呟く。
『難しい顔してる』
リリも心配そうだった。
「少しだけです」
『嘘だな』
『嘘だね』
二人の声が重なる。
ミアは苦笑した。
最近は本当に隠し事ができない。
その時だった。
コンコン。
扉が叩かれる。
「どうぞ」
ミアが返事をする。
扉が開いた。
「失礼する」
聞き慣れた声だった。
エルンストである。
ミアは慌てて姿勢を正した。
「陛下」
エルンストは静かに部屋へ入ってくる。
いつもの無表情。
だが、その瞳はミアをしっかり見ていた。
「何か考え事か」
「……分かりますか?」
「顔に出ている」
即答だった。
ミアは少し恥ずかしくなる。
エルンストは窓際へ歩み寄る。
「未来の皇妃としてのことか」
ミアは目を見開いた。
「どうして……」
「私も同じだからだ」
短い答えだった。
だが、それだけで十分だった。
エルンストもまた、皇帝として常に考えていた。
どうすれば民はもっと豊かに暮らせるのか。
どうすれば帝国はより良い国になるのか。
報告書だけでは見えない現実があることを。
しばらく沈黙が流れる。
やがてミアは意を決した。
「陛下」
「なんだ」
「お願いがあります」
エルンストが視線を向ける。
ミアは真っ直ぐ彼を見た。
「もっと民の暮らしを知りたいです」
部屋が静かになる。
「辺境だけじゃありません」
「帝都も」
「地方も」
「私はまだ何も知りません」
未来の皇妃。
そう呼ばれる立場になった。
だが実際は違う。
何も知らない。
何も見ていない。
それでは駄目だと思った。
「民のために何かしたいなら」
ミアは続ける。
「まず知るべきだと思うんです」
エルンストは何も言わない。
ただ静かに聞いている。
「だから――」
ミアは深く頭を下げた。
「もっと民の暮らしを見たいです」
沈黙。
数秒。
やがて。
「そうか」
エルンストは小さく頷いた。
否定されなかった。
ミアは顔を上げる。
すると。
エルンストの口元がほんのわずかに緩んでいた。
「実は私も考えていた」
「え?」
「視察だ」
ミアは目を見開く。
「帝都の外を見たいと思っていた」
エルンストは窓の外へ視線を向ける。
「報告書だけでは分からない」
「数字だけでは見えない」
「そこには現実がある」
その言葉には重みがあった。
皇帝として。
帝国を背負う者として。
長く国を見続けてきた人間の言葉だった。
「だが」
エルンストは続ける。
「皇帝が動けば騒ぎになる」
「護衛が増える」
「歓迎の準備も始まる」
「本当の姿は見えなくなる」
ミアは頷く。
確かにその通りだった。
皇帝が来ると分かれば、誰も本音を口にしない。
見せたいものだけを見せようとするだろう。
「だから」
エルンストはミアを見た。
「お忍びで行く」
ミアは固まった。
「お忍び……ですか?」
「ああ」
エルンストは当然のように答える。
「身分を隠す」
「護衛も最小限だ」
『おお!』
アルが声を上げる。
『面白そう!』
リリも目を輝かせた。
「本当にできるのですか?」
「できるようにする」
即答だった。
そこに迷いはない。
ミアは思わず笑みを浮かべる。
「行きます」
「ああ」
「絶対に行きます」
「そう言うと思った」
エルンストは小さく頷いた。
その横顔は、どこか穏やかにも見えた。
こうして、皇帝と未来の皇妃による極秘視察が決定した。
二人はまだ知らない。
この旅が帝国の抱える現実を知り、未来を変える新たな発想へと繋がることを。
そして、二人の距離をさらに縮めることになることを。
まだ知る由もなかったのである。




