第62話 大騒動
穏やかな時間は、唐突に終わりを告げた。
コンコン。
部屋の扉が叩かれる。
「ミア、おるか?」
聞き慣れた声だった。
クロエである。
その声を聞いた瞬間、ミアは嫌な予感を覚えた。
しかも、とびきり嫌な予感だ。
「少し相談があっての――」
返事を待つことなく、扉が開かれる。
クロエが部屋へ入ってきた。
そして――
止まった。
ぴたりと。
まるで時間そのものが凍り付いたかのように。
「クロエ様?」
ミアが声を掛ける。
だが反応はない。
クロエの視線は、部屋の奥へ完全に釘付けになっていた。
白銀の髪。
黄金の瞳。
優雅な所作で紅茶を口に運ぶ女性。
エイルである。
数秒の沈黙が流れた。
やがてクロエの唇がわずかに震える。
「……まさか」
一歩前へ出る。
「その御髪は」
さらに近付く。
「その魔力は」
声が震えていた。
普段のクロエからは想像もできないほどに。
「竜皇妃陛下……?」
エイルは穏やかに微笑んだ。
「お久しぶりですね、クロエ」
次の瞬間。
「なんでおるんじゃああああああああっ!!」
絶叫が離宮中へ響き渡った。
窓ガラスがびりびりと震える。
リリが飛び上がった。
『うわっ!?』
『耳が痛い!』
アルも顔をしかめる。
クロエは頭を抱えていた。
「な、な、な、なにをしておるのですか!?」
「お茶を飲んでいます」
エイルは落ち着き払って答えた。
「そういう話ではありません!」
クロエは叫ぶ。
「なぜミアの部屋におるのですか!?」
「心配だったので」
「だからといって、どうやって来たのですか!?」
「窓からです」
「おい!」
即座にツッコミが飛んだ。
エイルはきょとんとしている。
「正門から来ると騒ぎになりますので」
「今も十分騒ぎになっとるわ! というか、アルカ=ヴェルはどうしたのです!? 竜皇妃陛下が不在で大丈夫なのですか!?」
クロエのもっともな疑問に、部屋の全員が頷いた。
竜の聖域アルカ=ヴェル。
帝国の根幹とも言える場所だ。
その主とも言うべき存在が、ふらりと出歩いていていいはずがない。
エイルは紅茶を一口飲んでから答えた。
「問題ありませんよ。留守はオルドと皆に任せていますから」
「白竜皇陛下がおられるなら確かに問題はないでしょうが……」
クロエは頭痛を堪えるように額を押さえた。
「だからといって、何の連絡もなく皇宮へ来る理由にはなりません!」
「ミアに会いたかったので」
「理由が軽い!」
まったくもってその通りである。
ミアも心の中で深く同意した。
その時だった。
廊下が急に騒がしくなる。
絶叫を聞きつけた侍女たちが集まってきたのだ。
「どうしたのですか!?」
「何事ですか!?」
「クロエ様!?」
そして。
一人の侍女が部屋の中を覗き込んだ。
固まる。
青ざめる。
震える。
白銀の髪。
黄金の瞳。
神々しいほど整った美貌。
見間違えるはずがない。
幼い頃から何度も絵で見てきた。
礼法書でも。
歴史書でも。
皇室教育の教本でも。
必ず語られる御方。
「りゅ……」
侍女の唇が震える。
「竜皇妃陛下……?」
次の瞬間。
「竜皇妃陛下がいらっしゃいますぅぅぅぅ!!」
悲鳴にも似た声が廊下へ響き渡った。
それで終わりだった。
数分後、離宮は大混乱に陥っていた。
報告は瞬く間に皇宮中へ広がる。
竜皇妃来訪。
しかも無通告。
しかも離宮。
しかもミアの部屋。
大騒ぎにならない方がおかしい。
さらに噂を聞きつけた者たちが、次々と離宮へ押し寄せた。
侍女たち。
近衛騎士たち。
文官たち。
普段は離宮に近寄る理由のない者まで、少しでも竜皇妃の姿を見ようと集まってくる。
「本当に竜皇妃陛下なのか?」
「一目だけでも……!」
「伝説の御方が皇宮に……!」
廊下は人で埋まり、窓の外にまで見物人が増えていく。
誰もが興奮していた。
竜皇妃エイル。
建国神話の時代から語られる存在。
歴代皇帝ですら滅多に謁見できない御方だ。
そんな存在が今、この離宮にいる。
見たいと思うなという方が無理だった。
そして真っ先に駆け付けたのはクラリッサだった。
皇太妃は部屋へ入った瞬間、足を止めた。
「まさか……」
かすれた声が漏れる。
エイルは優しく微笑んだ。
「お久しぶりです、クラリッサ」
その瞬間。
クラリッサは深く頭を垂れた。
「竜皇妃陛下」
その声には深い敬意が滲んでいた。
エイルは伝説の存在だ。
白竜皇オルドの妃。
建国以来、幾度となく歴代皇帝たちを見守ってきた存在。
人間にとっては、生きる歴史そのものだった。
続いてクラウスも姿を現した。
「母上、本当なのですか――」
言葉が止まる。
固まる。
そして。
「竜皇妃陛下……」
第一皇子もまた驚愕していた。
クラウスがエイルに会ったのは幼い頃。
先帝ヴィルヘルムに連れられてアルカ=ヴェルを訪れた時以来だった。
まさかミアの部屋で再会するとは夢にも思わない。
誰もが混乱していた。
伝説の存在が。
神話の登場人物が。
なぜか離宮で紅茶を飲んでいる。
理解が追いつかなかった。
そして最後にエルンストが姿を現した。
「騒がしいと思ったら……」
部屋へ入る。
エイルを見る。
そして。
「お久しぶりです」
普通に挨拶した。
部屋が静まり返った。
クラリッサが振り向く。
クラウスも振り向く。
クロエも振り向く。
ミアも振り向く。
「……以上か?」
エルンストが尋ねた。
全員が固まった。
「以上か、ではない!」
真っ先に叫んだのはクロエだった。
「竜皇妃陛下じゃぞ!?」
「知っている」
「知っておるならもっと驚かんか!」
「前にも会っている」
エルンストは平然としていた。
皇帝選定の日。
そして即位後の挨拶。
エイルとはすでに面識がある。
もちろん敬意は払っている。
だが今さら大騒ぎする理由もなかった。
エイルはそんなエルンストを見て楽しそうに笑う。
「相変わらずですね」
「恐縮です」
まったく恐縮しているようには見えなかった。
クロエは頭を抱えた。
クラリッサは額を押さえた。
クラウスは苦笑した。
ミアだけは思う。
(やっぱり感覚がおかしいのでは……?)
だが、その疑問を口にする者はいなかった。
こうして竜皇妃エイルの突然の来訪は、皇宮中を巻き込む大騒動へと発展したのである。




