第61話 突然のお客様
暗殺未遂事件から数日が経った。
皇宮は少しずつ落ち着きを取り戻しつつあったが、平穏とはまだ程遠い。
犯人は依然として捕まっておらず、警備は以前にも増して厳重になっている。巡回する騎士の数も増え、皇宮全体に緊張感が漂っていた。
それでも、あの日の騒然とした空気に比べれば、今はずっと静かだった。
ミアは離宮の自室で本を開いていた。
窓から差し込む春の日差しは柔らかく、穏やかな午後の時間が流れている。
しかし、視線は文字を追っていても内容はほとんど頭に入ってこなかった。
どうしても考えてしまうのだ。
婚約披露宴で起きた出来事を。
高濃度の魔素。
暗殺未遂。
倒れた皇太妃クラリッサ。
そして、青ざめたエルンストの表情を。
「……」
気付けば、ミアは本を閉じていた。
『また考えてるな』
窓辺に腰掛けていたアルが腕を組む。
『考えちゃうよね』
リリも心配そうに言った。
「少しだけです」
『嘘だな』
『嘘だね』
二人の声が綺麗に重なる。
ミアは苦笑した。
否定できなかった。
その時だった。
コンコン。
窓ガラスを叩く音が響いた。
「え?」
ミアは顔を上げる。
ここは二階だ。
外から誰かが窓を叩ける高さではない。
『鳥か?』
『鳥にしては大きな音だったよ?』
アルとリリも首を傾げる。
再び。
コンコン。
確かに窓が叩かれた。
ミアは恐る恐る振り返る。
そして――
固まった。
「……え?」
窓の向こうに人がいた。
正確には。
空中に立っていた。
白銀の髪。
透き通るような白い肌。
柔らかな金色の瞳。
穏やかな微笑み。
見間違えるはずがない。
『え?』
『は?』
妖精たちも揃って固まる。
女性はにこりと笑った。
「開けてもらえますか?」
ミアの思考が停止した。
三秒ほど停止した。
そして。
「エイル様ぁぁぁ!?」
慌てて窓を開ける。
するとエイルは当然のように部屋へ入ってきた。
ふわり、と。
まるで風に乗る羽のように軽やかに。
「こんにちは」
「こんにちはではありません!」
ミアは思わず叫んだ。
「ど、どうやってここまで来られたのですか!?」
「飛んできました」
エイルは小首を傾げる。
本気で何がおかしいのか分かっていない様子だった。
『飛んできた』
『飛んできたらしい』
アルとリリが真顔で復唱する。
ミアは頭を抱えたくなった。
相手は白竜皇妃である。
人間の常識を当てはめてはいけない。
分かっている。
分かってはいるのだが、それでも驚くものは驚く。
「そ、それで、どうしてこちらへ……?」
エイルは少しだけ表情を和らげた。
「心配だったので」
「心配?」
「暗殺未遂があったと聞きました」
その声音は優しかった。
まるで家族を気遣うような温かさがあった。
ミアは目を瞬かせる。
「私を……ですか?」
「もちろんです」
エイルは当たり前のように頷いた。
「怖い思いをされたでしょう?」
その一言に。
ミアの胸が少しだけ痛んだ。
本当は怖かった。
あの時は必死で、それを自覚する余裕がなかっただけだ。
もし間に合わなかったら。
もし異変に気付けなかったら。
そう考えるたびに胸の奥がざわつく。
エイルはそんなミアの表情を見て、何も言わず近くの椅子へ腰掛けた。
「少しお話を聞かせてもらえますか?」
穏やかな声だった。
不思議と断る気になれない。
ミアは向かいの椅子に座った。
そして話し始める。
婚約披露宴での出来事。
高濃度の魔素。
皇太妃クラリッサの失神。
犯人がまだ捕まっていないこと。
不安なこと。
怖かったこと。
気付けば、思っていた以上に多くを話していた。
エイルは途中で口を挟まない。
ただ静かに耳を傾けていた。
時折、小さく頷くだけだ。
そして話し終える頃には、ミアの心も少しだけ軽くなっていた。
「そうでしたか」
エイルは優しく微笑む。
「大変でしたね」
「私は……」
ミアは俯いた。
「もっと早く気付けたかもしれません」
「もっと何かできたかもしれません」
エイルは静かに首を横へ振る。
「いいえ」
その声は優しかった。
だが、不思議と力強かった。
「貴女は十分に頑張りました」
ミアは顔を上げる。
「エイル様……」
「誰よりも早く異変に気付きました」
「誰よりも早く動きました」
「そして大切な人たちを守りました」
エイルは微笑む。
「それは決して簡単なことではありません」
ミアの胸の奥が少しだけ温かくなる。
張り詰めていた何かが、ゆっくりとほどけていくようだった。
「だから」
エイルは優しく言った。
「自分を責めてはいけません」
ミアは目頭が熱くなるのを感じた。
「ありがとうございます……」
エイルは穏やかに頷いた。
そしてふと、ミアの肩の辺りへ視線を向ける。
「その子たちが妖精ですね」
『え?』
リリが固まった。
『今、見えた?』
『見えてるな』
アルも目を丸くする。
ミアも思い出したように声を上げた。
「あっ、そうでした」
「エイル様、この子たちを紹介していませんでした」
ミアは少し嬉しそうに微笑む。
「妖精のリリとアルです」
「私の大切な家族なんです」
リリは照れたように羽をぱたぱたさせる。
アルはそっぽを向いた。
エイルは優しく目を細めた。
「初めまして」
その瞬間。
妖精たちは完全に固まった。
『み、見えてる……』
『本当に見えてるな』
『ミア以外で初めてだ!』
リリは慌ててミアの後ろへ隠れた。
アルも珍しく警戒している。
エイルは苦笑した。
「怖がらなくても大丈夫ですよ」
『だ、だって!』
リリが顔だけ出す。
『ミア以外で見える人なんて初めてなんだもん!』
「そうなのですか?」
『そうだ』
アルが頷く。
『普通は誰も気付かない』
エイルは納得したように頷いた。
そして二人を見つめる。
「綺麗な妖精たちですね」
『綺麗?』
「ええ」
エイルは微笑む。
「貴女たちがミアさんをとても大切に思っていることが伝わってきます」
妖精たちは顔を見合わせた。
そして。
『いい人だ!』
『いい人だな』
あっさり警戒を解いた。
ミアは思わず吹き出しそうになる。
本当に単純だった。
エイルも楽しそうに笑う。
部屋の空気が少しだけ柔らかくなる。
窓の外では春風が木々を揺らしていた。
だが、その平穏は長く続かなかった。
この数十分後。
偶然ミアの部屋を訪れたクロエがエイルの姿を発見し、
皇宮全体を巻き込む大騒動へと発展することになる。
この時のミアは、まだ知る由もなかったのである。




