第59話 見えない敵
暗殺未遂事件から三日が過ぎた。
皇宮には、依然として重苦しい緊張感が漂っている。
表向きには婚約披露宴で発生した不測の事故として処理されていた。
しかし、その実態はまったく異なる。
未来の皇帝と未来の皇妃を狙った明確な暗殺未遂事件。
しかも用いられたのは毒ではなく、高濃度の魔素による殺害という前例のない手口だった。
皇帝執務室。
エルンストは机の上へ積み上げられた報告書へ静かに目を通していた。
憲兵隊。
近衛騎士団。
宮廷魔法使い。
あらゆる部署が総動員され、昼夜を問わず調査が続けられている。
しかし、その成果は芳しくなかった。
「進展はあるか」
静かな問いに、近衛騎士が深く頭を下げる。
「申し訳ありません」
「現時点では有力な手掛かりは発見できておりません」
「料理人、給仕、侍女、護衛騎士まで全員を調査しましたが、不審な点は確認されませんでした」
「厨房への侵入記録も存在しておりません」
エルンストは何も答えなかった。
予想していた報告だった。
だが、納得できるものではない。
事件は確かに起きた。
犯人も確実に存在する。
それなのに、何一つ掴めない。
まるで最初から存在しない人物を追っているかのようだった。
『本当に何もないの?』
リリが不安そうに呟く。
『あんなに危なかったのに……』
『証拠がないってのが一番厄介なんだろうな』
アルは腕を組んだ。
『見えない火種みたいなもんだ』
ミアは小さく頷く。
見えない。
だからこそ恐ろしい。
その時だった。
「失礼するぞ」
扉が開き、クロエが姿を現した。
両腕いっぱいに資料を抱えている。
「どうだった?」
エルンストが尋ねる。
クロエは大きくため息をついた。
「駄目じゃな」
資料を机へ置きながら肩をすくめる。
「宮廷魔法使いも調べた」
「貴族お抱えの魔法使いたちも洗った」
「怪しい者は何人もおったが、犯人へ繋がる証拠は何一つ出てこん」
ミアも険しい表情を浮かべた。
犯人が魔法使いであることだけは間違いない。
しかし、それ以上が見えてこない。
「ただし、分かったこともある」
クロエが腕を組む。
「犯人は相当な手練れじゃ」
「高濃度の魔素を料理へ流し込む技術」
「痕跡を完全に消し去る隠蔽術式」
「発覚しても証拠を残さぬ手口」
「どれも一流の魔法使いでなければ不可能じゃ」
部屋の空気が張り詰める。
『嫌な相手だな』
アルが低く呟く。
『強い上に隠れるのも上手い』
『そんなのずるいよ……』
リリはミアの肩へ身を寄せた。
「少なくとも街の魔法使い程度ではない」
「帝国内でも指折りの実力者じゃろう」
ミアは息を呑む。
それは、犯人が帝国の重要人物である可能性を意味していた。
「もう一つある」
クロエの声がさらに低くなる。
「今回の犯行は皇宮内部の事情を知らねば実行できん」
エルンストの瞳が鋭く細められた。
「内部協力者がいると?」
「おるじゃろうな」
クロエは迷いなく頷く。
「披露宴の進行」
「座席配置」
「料理が運ばれる順番」
「それらを全て把握した上で動いておる」
偶然ではない。
思いつきでもない。
長い時間をかけて準備された、計画的な犯行だった。
その時、静かに執務室の扉が開いた。
「失礼します」
姿を現したのは、皇兄クラウスだった。
「兄上」
エルンストが視線を向ける。
クラウスは一礼すると、数枚の書類を机へ差し出した。
「帝国内の反応をまとめました」
「幸い、情報統制は機能しています」
「各地の領主や重臣も、現時点では陛下の指示に従っています」
エルンストは書類へ目を通し、小さく頷いた。
「ご苦労だった」
「ですが」
クラウスの表情がわずかに曇る。
「時間は味方ではありません」
「犯人が見つからなければ、不安はやがて疑念へ変わります」
「民も貴族も、やがて真実を求め始めるでしょう」
誰も反論できなかった。
クラウスの言葉は現実そのものだった。
事件が長引けば長引くほど、帝国は内側から揺らぎ始める。
クラウスは静かに続ける。
「犯人は、それも計算しているのかもしれません」
その一言に、部屋の空気がさらに重くなる。
時間さえも敵。
それが今回の事件だった。
ミアは小さく呟く。
「帝国中枢に敵がいる……」
誰も否定しない。
沈黙こそが答えだった。
皇帝を狙った者。
未来の皇妃を狙った者。
その人物は帝国の中心にいる。
高い権力を持ち、卓越した魔法技術を持つ危険な存在。
『笑ってた人たちの中にいたのかな……』
リリが不安そうに呟く。
『そういうことだろうな』
アルも表情を曇らせた。
ミアは胸の奥が冷たくなるのを感じた。
祝福の拍手。
笑顔。
祝いの言葉。
その中に、自分たちの命を狙った者がいたのかもしれない。
「厄介じゃのう」
クロエが静かに呟く。
「見えておる敵なら対処できる」
「じゃが、見えん敵ほど厄介なものはない」
その言葉に反論する者はいなかった。
犯人は今もどこかに潜んでいる。
そして、おそらく次の機会を狙っている。
エルンストは窓の外へ目を向けた。
春の青空。
風に揺れる若葉。
一見すれば、平穏そのものの景色だった。
だが、その平穏の裏側では、帝国を揺るがす巨大な陰謀が、まだ誰にも姿を見せぬまま静かに牙を研いでいたのである。




