第58話 皇太妃の弱さ
婚約披露宴での暗殺未遂事件から一日。
皇宮は依然として緊張した空気に包まれていた。
そんな中。
ミアは皇太妃クラリッサの私室を訪れていた。
昨日、クラリッサは会場で倒れている。
医師の診断では過度な精神的負担による失神だった。
命に別状はない。
だがミアは心配だった。
扉をノックする。
「皇太妃陛下」
「入りなさい」
少し疲れた声だった。
ミアは静かに部屋へ入る。
窓際の椅子にクラリッサが座っていた。
顔色はまだ優れない。
普段のような威厳もどこか薄れて見える。
だが何より目を引いたのは、その様子だった。
クラリッサは両手を強く握り締めている。
指先は白くなるほど力が入っていた。
肩もわずかに震えている。
呼吸も浅く速い。
まるで落ち着こうとしても落ち着けないかのように。
『まだ苦しそう……』
リリが小さく呟いた。
『昨日の今日だからな』
アルも珍しく声を抑えている。
『簡単に元気になれるわけないよな』
ミアは胸が痛んだ。
「お身体は大丈夫ですか?」
ミアが尋ねる。
クラリッサは小さく頷いた。
「ええ」
「心配をかけましたね」
そう答える声もかすかに震えていた。
少しの沈黙。
やがてクラリッサは小さく息を吐く。
だが、その吐息さえ落ち着かない。
短く途切れ、呼吸のリズムが乱れている。
「……みっともないところを見せました」
ミアは目を瞬かせる。
まさか謝罪されるとは思わなかった。
「そんなことは――」
「あります」
クラリッサは静かに首を横に振った。
その動きに合わせて白銀の髪が揺れる。
月光を溶かしたような美しい髪だった。
だが震えは止まらない。
「皇太妃ともあろう者が人前で取り乱したのです」
「本来ならあってはならないことでした」
その声には自嘲が混じっていた。
ミアは何も言えない。
昨日のクラリッサを思い出す。
あれは皇太妃ではなかった。
一人の母親だった。
「……怖かったのですか?」
ミアはそっと尋ねた。
クラリッサはしばらく答えなかった。
窓の外へ視線を向ける。
春の庭園。
若葉が風に揺れている。
穏やかな景色だった。
けれどクラリッサの心は、まだ嵐の中にあるようだった。
握り締めた拳がさらに震える。
「怖かったわ」
やがて。
消え入りそうな声が返ってきた。
ミアは息を呑む。
「ヴィルヘルムを失った時も」
「ジークフリートを失った時も」
クラリッサは遠くを見るような目をしていた。
「私は何もできなかった」
その言葉は重かった。
「皇妃でありながら」
「母でありながら」
「守れなかった」
声がかすれる。
拳は震え続けていた。
昨日より落ち着いている。
だが。
傷は何一つ癒えていない。
「そして昨日」
クラリッサは唇を噛んだ。
「エルンストまで失うかもしれないと思った」
その瞬間。
肩がびくりと震えた。
まるで思い出しただけで恐怖が蘇るかのように。
『……つらいな』
アルがぽつりと呟いた。
『うん』
リリも小さく頷く。
『大事な人がいなくなるのは、怖いよ』
部屋が静まり返る。
「頭では分かっていたのです」
「まだ何も起きていないと」
「助かったのだと」
それでも。
「身体が動かなかった」
その声は弱々しかった。
「今でも……少し駄目なのです」
クラリッサは視線を伏せる。
「目を閉じると、あの瞬間を思い出してしまう」
「また誰かを失うのではないかと考えてしまうのです」
言葉の途中で呼吸が乱れた。
浅い息を何度も繰り返し、胸が小刻みに上下する。
まるで過呼吸を必死に抑え込んでいるようだった。
恐怖を押し殺そうとしているのが分かった。
普段の彼女なら決して口にしないような弱音だった。
ミアは胸が締め付けられる。
まだ傷は生々しい。
まだ心は嵐の中にある。
完全に落ち着けるはずがなかった。
「皇太妃陛下」
ミアはゆっくり近付く。
「怖いと思うのは当然です」
「大切な人を失うかもしれないと思ったんですから」
クラリッサは何も言わない。
だが、その肩はまだ小刻みに震えていた。
恐怖は消えていない。
それでも。
ミアの言葉を聞いている。
「それに……」
ミアは少しだけ微笑んだ。
「エルンスト陛下を助けられて、本当に良かったです」
クラリッサの瞳がわずかに揺れる。
「昨日はありがとうございました」
震える声だった。
「私では間に合わなかったかもしれません」
「でも、ミアさんがいてくれたから……エルンストは無事でした」
そこには確かな感謝が込められていた。
「皇太妃陛下……」
「お礼を言わせてください」
クラリッサはぎゅっと胸元で手を握る。
「大切な人を守ってくれて、ありがとう」
皇太妃としてではない。
一人の妻として。
一人の母として。
心からの言葉だった。
ミアは少し照れくさそうに笑う。
「当然のことをしただけです」
「それでもです」
クラリッサは静かに首を振った。
「私はあなたに救われました」
その言葉に。
ミアは何と返せばいいのか分からなくなる。
『へへっ』
リリが嬉しそうに笑った。
『ちゃんと伝わったな』
アルも満足そうに頷く。
少しだけ。
部屋の空気が柔らかくなった。
「陛下は大丈夫です」
クラリッサは顔を上げた。
「私もいます」
「クロエ様もいます」
ミアは優しく微笑む。
「まずはゆっくり息をしてください」
「大丈夫ですから」
『そうだよ』
リリが小さく頷いた。
もちろんクラリッサには聞こえない。
それでもリリは必死に言葉を重ねた。
『一人じゃないよ』
『……まあ、そういうことだ』
アルも照れたように腕を組む。
『ミアもエルンストもいるしな』
ミアは二人の言葉を胸に受け止めながら、穏やかな声で続けた。
「だから一人で抱え込まないでください」
「すぐに元気になれなくてもいいんです」
「少しずつで」
しばらく沈黙が流れた。
クラリッサは何も言わない。
だが。
震えていた指先がほんの少しだけ緩む。
呼吸も先ほどよりわずかに落ち着いていた。
その瞳は少しだけ揺れていた。
「あなたは」
ぽつりと呟く。
「本当に変わった子ですね」
「え?」
「普通なら私を恐れるでしょうに」
ミアは思わず苦笑した。
「少し怖いです」
「少しですか?」
「少しだけです」
クラリッサは呆れたように息を吐く。
ほんの僅かだったが。
口元に笑みが浮かんだ。
「まったく……」
『笑った』
リリがほっとしたように呟く。
『ちょっとだけな』
アルも小さく息を吐いた。
その姿を見てミアは安心する。
まだ完全ではない。
まだ苦しみも消えていない。
まだ恐怖で震えている。
昨日の出来事は、それほどまでに彼女の心を傷付けたのだ。
それでも。
昨日よりは確かに前を向いていた。
窓の外では春の風が若葉を揺らしている。
傷がすぐに癒えることはない。
けれど。
一人ではない。
それだけは確かだった。




