第3話 婚約者
ミアは努力家だった。
誰も見ていなくても努力する。
褒められなくても努力する。
それは幼い頃から変わらなかった。
妖精が見えることで周囲から理解されなくても。
顔に火傷の傷跡が残ってしまっても。
ミアは諦めなかった。
なぜなら、彼女には夢があったからだ。
王妃になること。
そして、夫となるヘンリー第二王子を支えること。
それがミアの願いだった。
朝は誰よりも早く起きた。
身支度を整え、朝食を済ませると、すぐに勉強が始まる。
礼儀作法やダンス、歴史、政治、外国語。
刺繍や音楽も学ばなければならない。
王妃教育は決して楽なものではなかった。
一つでも所作を間違えれば注意される。
言葉遣いが乱れれば指摘される。
国の歴史や外交関係も覚えなければならない。
だがミアは、一度も弱音を吐かなかった。
「ミア様、本日はここまでにしましょう」
家庭教師がそう言っても、ミアは静かに頭を下げた。
「もう少しだけお願いします」
少しでもヘンリーの役に立ちたかった。
少しでも相応しい婚約者になりたかった。
だから努力した。
ひたすら努力した。
妖精たちは、そんなミアをいつも近くで見守っていた。
『ミア、また勉強?』
リリが机の上で頬杖をつく。
『少し休んだ方がいいよ』
「大丈夫」
ミアは微笑む。
「これくらいできないと、ヘンリー殿下のお役に立てないもの」
『あいつのために、そこまでする必要ある?』
アルが窓辺で不満そうに言う。
「婚約者だもの」
ミアはそう答えた。
迷いのない声だった。
けれどアルは面白くなさそうにそっぽを向く。
『俺は気に入らない』
『アルはすぐ怒るんだから』
『怒ってねぇ』
リリとアルのやり取りに、ミアは少しだけ笑った。
その笑顔は穏やかだった。
しかし、どこか寂しげでもあった。
ある日のこと。
王宮で小さなお茶会が開かれた。
王族と親しい貴族だけが招かれる、格式ある集まりである。
ミアはランベルト伯爵家の長女として、そして第二王子の婚約者として王宮を訪れていた。
白を基調とした控えめなドレスに、傷跡を隠すための薄いヴェール。
鏡の前で身支度を整えた時、侍女は言った。
「とてもお似合いです、ミア様」
「ありがとう」
ミアは微笑んだ。
けれど鏡の中の自分を見ると、胸が少し痛む。
ヴェール越しでも、傷跡が完全に消えるわけではない。
それでも今日はヘンリーに会える。
そう思うだけで、心は少しだけ弾んだ。
王宮の庭園には既に多くの貴族たちが集まっていた。
色鮮やかなドレスと上品な笑い声。
磨き上げられた銀の茶器。
その中にヘンリーの姿があった。
第二王子ヘンリー・ローズフィールド。
金色の髪に澄んだ青い瞳を持つ、誰もが認める美男子。
貴族令嬢たちの憧れの存在である。
幼い頃のヘンリーは優しかった。
一緒に庭を歩き、本を読み、未来の話もした。
いつか夫婦になるのだと、ミアは疑いもしなかった。
けれど最近は違う。
「ヘンリー殿下」
ミアが声をかける。
ヘンリーは振り返った。
「ああ、ミア」
返事はあった。
だが、それだけだった。
笑顔は薄い。
声もどこか素っ気ない。
ミアは胸の奥に小さな痛みを覚えた。
「本日はお招きいただき、ありがとうございます」
「うん。楽しんでいってくれ」
「はい」
会話はそこで途切れた。
以前ならば、ヘンリーの方から最近読んだ本の話や庭の花の話をしてくれた。
勉強の進み具合を気にかけてくれたこともある。
けれど今は違う。
沈黙が落ちる。
ミアは何か話題を探そうとした。
その時だった。
「ヘンリーお兄様!」
明るい声が響く。
エミリーだった。
淡い桃色のドレスに身を包み、金色の髪を揺らしながら駆け寄ってくる。
その姿は花の妖精のように愛らしかった。
ヘンリーの表情が変わる。
「ああ、エミリー」
先ほどまでとは違う。
自然な笑顔だった。
柔らかく、楽しげで、親しげな笑み。
ミアは思わず息を止めた。
「今日も来てくれたんだね」
「はい! お父様とお母様にお願いしたんです」
「そうか。君がいると場が明るくなる」
「まあ、ヘンリーお兄様ったら」
エミリーが楽しそうに笑う。
ヘンリーも笑う。
二人の間には、ミアの知らない空気があった。
胸がちくりと痛んだ。
だがミアは首を振る。
考えすぎだ。
きっと兄妹のようなものなのだ。
エミリーは誰とでもすぐに仲良くなれる。
ヘンリーも、ただ優しくしているだけ。
そう自分に言い聞かせた。
お茶会の間も同じだった。
ヘンリーはエミリーと楽しそうに話している。
ミアは少し離れた席から、その様子を眺めていた。
目の前には紅茶と焼き菓子が置かれている。
だが味はよく分からなかった。
『あいつ、なんか変じゃない?』
肩に座ったリリが小声で言う。
「そんなことないよ」
ミアは小さく答えた。
『あるだろ』
今度はアルだった。
テーブルの端に腰掛け、不機嫌そうにヘンリーを睨んでいる。
『婚約者をほったらかしにして、妹とばかり話してるじゃねぇか』
「エミリーは誰とでも仲良くなれるから」
『それとこれとは別だろ』
アルは不満そうだった。
リリも頷く。
『ミア、寂しくないの?』
「……寂しくないよ」
少しだけ間が空いた。
自分でも分かるほど、不自然な返事だった。
けれどリリもアルも、それ以上は何も言わなかった。
ミアが無理をしていることを、分かっていたからだ。
その日から、王宮へ赴くたびに同じ光景を見ることになった。
ヘンリーは優しい。
だが、その優しさはミアに向けられてはいない。
エミリーに向けられていた。
ミアは必死に努力を続けた。
もっと勉強しよう。
もっと美しく振る舞おう。
もっと立派な令嬢になろう。
そうすればきっと。
昔のように笑ってくれる。
昔のように名前を呼んでくれる。
昔のように、隣にいてくれる。
そう信じていた。
だが――。
どれだけ努力しても。
どれだけ頑張っても。
ヘンリーとの距離は少しずつ離れていく。
まるで砂時計の砂がこぼれ落ちるように。
静かに、確実に。
ミアだけが、そのことに気付いていなかった。
いや。
気付かないふりをしていたのかもしれない。
やがて訪れる婚約破棄の日が、少しずつ近付いていることを。
まだミアは知らなかったのである。




