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第2話 傷跡

 事故は突然だった。


 ミアが八歳。


 妹のエミリーが五歳の頃である。


 その日、ランベルト伯爵家では庭園で小さなお茶会が開かれていた。


 空は青く澄み渡っていた。


 柔らかな春風が花々を揺らし、色鮮やかな花弁が陽光の中を舞っている。


 父も母も機嫌が良かった。


 使用人たちも忙しそうに立ち働いている。


 穏やかな午後だった。


 少なくとも、その時までは。


「お姉様! 見て見て!」


 元気いっぱいの声が響く。


 ミアが振り返ると、エミリーが庭を駆け回っていた。


 金色の髪が陽光を浴びて輝いている。


 無邪気な笑顔。


 まるで天使のようだった。


「エミリー、走ると危ないよ」


「だいじょうぶ!」


 エミリーは元気よく答えた。


 だが、その「大丈夫」は本当に大丈夫ではなかった。


 足元の石に躓く。


 小さな身体が前へ傾いた。


「あっ――」


 ミアの顔から血の気が引く。


 エミリーの進行方向には庭師たちが使う作業棚があった。


 棚の上には薬草を煮出すための金属容器。


 つい先ほどまで火にかけられていたため、まだ熱湯が入っている。


 棚が大きく揺れた。


 容器が傾く。


 落ちる。


 全てが一瞬だった。


「エミリー!」


 ミアは反射的に走り出していた。


 考えるより先に身体が動いた。


 妹を抱き寄せる。


 小さな身体を庇う。


 そして――。


 熱湯が飛び散った。


「あっ……!」


 焼けるような痛みが顔と首を襲う。


 熱が突き刺さり、視界が真っ白になった。


 悲鳴が上がる。


「ミア!」


 母の叫び声。


「医者を呼べ!」


 父の怒号。


 使用人たちが慌ただしく駆け回る。


 その混乱の中でも、ミアは必死にエミリーを抱きしめていた。


「エミリー……怪我……してない?」


 震える声で尋ねると、エミリーは泣きながら何度も頷いた。


「うん……!」


 その返事を聞いた瞬間、ミアはほっと息を吐く。


 よかった。


 エミリーが無事で、本当に良かった。


 そう思った瞬間、意識は闇へ沈んだ。


 目を覚ました時、ミアは自室のベッドに寝かされていた。


 窓の外は薄暗い。


 どうやら夜らしい。


 頬に違和感があった。


 顔全体が重い。


 何かが張り付いているような感覚。


「お母様……?」


 声をかけると、すぐに母が駆け寄ってきた。


「ミア!」


 安堵したような声。


 だが、その瞳は赤く腫れていた。


 泣いていたのだろう。


 ミアは不安になる。


「顔……どうしたの?」


 母は答えない。


 視線を逸らした。


 嫌な予感がした。


 胸がざわつく。


 ふと横を見ると、机の上に鏡が置かれていた。


 ミアは震える手でそれを手に取る。


 そして鏡の中の自分を見た。


「……え?」


 言葉を失った。


 包帯の隙間から覗く皮膚は赤く変色し、醜く歪んでいる。


 幼いミアにも理解できた。


 元には戻らない。


 顔に傷が残ったのだと。


 ぽろりと涙が落ちた。


 一粒。


 また一粒。


 気付けば止まらなくなっていた。


「いや……」


 震える声が漏れる。


「いやだ……」


 母が抱きしめる。


「ミア……」


 父も傍らに立っていた。


「必ず治療法を探す」


 力強く言った。


 だが、その言葉に確信はなかった。


 そして、その予感は当たってしまう。


 それから数年。


 傷跡は消えなかった。


 王都の名医を呼んだ。


 高価な薬も試した。


 教会にも頼った。


 だが結果は変わらない。


 火傷の痕は残り続けた。


 そして歳月は残酷だった。


 エミリーは美しく成長していく。


 金色の髪。


 愛らしい笑顔。


 明るい性格。


 誰からも愛される少女。


 社交界でも評判だった。


 一方でミアは違う。


 顔には傷跡がある。


 妖精が見えると言う。


 大人しく目立たない。


 比較するまでもなかった。


 そして少しずつ、本当に少しずつ、家族の中心はエミリーになっていった。


「エミリーは本当に可愛いわね」


「さすが私たちの娘だ」


 そんな言葉を耳にする機会が増えていく。


 もちろん父も母もミアを嫌っているわけではない。


 それは分かっていた。


 だが、気付いてしまうのだ。


 向けられる期待が違うことに。


 視線の先が違うことに。


 そしてミアの婚約者であるヘンリー第二王子もまた変わっていった。


 幼い頃は優しかった。


 一緒に庭を散歩した。


 本を読んだ。


 未来の話もした。


 けれど、年齢を重ねるにつれ会話は減っていく。


 気付けば、彼が微笑みかける相手はミアではなくエミリーになっていた。


『あの王子、嫌い』


 リリが頬を膨らませる。


『見る目ねぇな』


 アルも不機嫌そうに呟いた。


 ミアは小さく笑う。


「仕方ないよ」


 本当は仕方なくない。


 本当は悲しい。


 本当は苦しい。


 それでも、そう言うしかなかった。


 鏡を見る。


 そこには傷跡の残る少女が映っている。


 そして脳裏には、美しく微笑むエミリーの姿が浮かんだ。


 比べたくない。


 でも比べてしまう。


 だから――。


「どうせ私なんて……」


 その呟きは小さかった。


 けれど確かに、少女の心の奥深くへ根を張り始めていた。


 後に運命を変えることになる劣等感の種が。


 この頃には、もう芽吹き始めていたのである。

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