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第56話 皇太妃の悪夢

 大広間は重苦しい沈黙に包まれていた。


 魔素中毒。


 魔物化。


 そして暗殺未遂。


 誰もが事態の深刻さを理解している。


 その中で――。


 一人だけ、明らかに様子がおかしい人物がいた。


 皇太妃クラリッサだった。


「皇太妃陛下?」


 ミアは思わず声を掛ける。


 だが返事はない。


 クラリッサは料理を見つめたまま、まるで時が止まったかのように立ち尽くしていた。


 その瞳はかすかに震えている。


 見ているのは目の前の料理ではない。


 もっと遠く。


 もっと昔の記憶だった。


『……ミア』


 リリが不安そうに呟く。


『クラリッサ様、変だよ』


『顔色が真っ青だぞ』


 アルも眉をひそめた。


 ミアも同じことを感じていた。


 ただ事ではない。


「母上?」


 エルンストも異変に気付く。


 その時だった。


 クラリッサの身体が大きく揺れた。


「……やめて」


 かすれるような声。


「母上?」


「やめて……やめて……」


 震える声とともに、その瞳から生気が失われていく。


 ミアは悟った。


 これは恐怖だ。


 長い年月、心の奥底へ押し込め続けてきた、本物の恐怖。


「嫌……」


 クラリッサは一歩後ずさる。


 その視線は、遥か彼方を見つめていた。


 ――ヴィルヘルム。


 優しかった夫。


 共に帝国を支え続けた皇帝。


 ――ジークフリート。


 誇り高き第二皇子。


 誰よりも優しかった息子。


 二人はもういない。


 夫は病に倒れ。


 息子は戦場で命を落とした。


 守れなかった。


 救えなかった。


 その悔恨は、今なお彼女の胸を蝕み続けている。


「嫌……嫌よ……」


 クラリッサの肩が激しく震える。


「もう嫌……もう見たくない……!」


 掠れた叫びに、周囲の貴族たちもざわめき始めた。


 いつも冷静沈着な皇太妃。


 決して弱みを見せない女性。


 そんな彼女が、今にも崩れ落ちそうになっている。


「母上」


 エルンストが近付く。


 しかし――。


 クラリッサはエルンストの顔を見た瞬間、さらに顔を青ざめさせた。


「駄目……」


 震える声。


「あなたまで……」


 エルンストが息を呑む。


「母上」


「来ないで……!」


 クラリッサは半狂乱になったように首を振った。


「駄目よ……! その顔をしないで……!」


 誰も意味が分からない。


 だがクラリッサには見えていた。


 血に濡れた息子の姿が。


 冷たくなった夫の姿が。


 失ったはずの家族の姿が。


「またなの……?」


 涙が溢れる。


「また私から奪うの……?」


「どうして……どうしていつも私なの……!」


 それは長年押し殺してきた絶望の叫びだった。


「ヴィルヘルムも!」


「ジークフリートも!」


「私は守れなかったのに!」


 会場が静まり返る。


 誰一人、言葉を発することができない。


「もう嫌なの……」


 そこにいるのは皇太妃ではなかった。


 一人の妻。


 一人の母だった。


「もう誰も失いたくない……」


 その時だった。


「母上!」


 皇兄クラウスが駆け寄る。


 穏やかな笑みは消え、心配そうに母の肩へ手を添えた。


「母上、私です」


「クラウスです」


 優しく呼び掛ける。


 しかし、その声は届かない。


 クラリッサの虚ろな瞳は、過去だけを見つめていた。


「お願いだから……!」


 クラリッサは胸を押さえる。


「もう連れていかないで……!」


「私から家族を奪わないで……!」


「お願い……お願いだからぁ……!」


 嗚咽混じりの叫びが、大広間へ響き渡る。


 ミアは胸が締め付けられた。


 クラリッサはずっと耐えてきた。


 誰にも弱音を吐かず。


 誰にも頼らず。


 皇太妃として、母として、ただ一人で悲しみを抱え続けてきた。


『ミア……』


 リリがそっとミアの肩に触れる。


『クラリッサ様、ずっと苦しかったんだね……』


 ミアは静かに頷いた。


 その瞬間だった。


 クラリッサの瞳から力が抜ける。


「いや……いや……エルンスト……」


 最後に息子の名を呼び、糸が切れたように身体が崩れ落ちた。


「母上!」


 エルンストが咄嗟に抱き留める。


 その隣では、クラウスも母の身体を支えた。


「医師を!」


 クラウスの鋭い声が大広間へ響く。


「早く医師を呼べ!」


 その一声で騎士や侍女たちが一斉に動き始めた。


 エルンストは母を強く抱き締める。


「母上……」


 呼び掛けても返事はない。


 涙の跡を残したまま、クラリッサは静かに意識を失っていた。


 極度の緊張。


 積み重なった悲嘆。


 そして再び家族を失うかもしれないという恐怖。


 限界を超えた心が、ついに悲鳴を上げたのだ。


 エルンストは母を抱え、クラウスはその傍らで静かに寄り添う。


 兄弟は言葉を交わさない。


 それでも、母を守りたいという願いは同じだった。


 その姿を見つめながら、ミアは静かに拳を握り締める。


 もう二度と、この家族から大切な人を失わせてはならない。


 その決意は、誰にも聞こえぬまま、胸の奥で静かに、そして力強く燃え始めていた。

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