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第55話 魔素中毒

 大広間は静まり返っていた。


 先ほどまでの華やかな祝宴の空気は跡形もなく消え去り、残されていたのは張り詰めた緊張と拭いきれない不安だけだった。


 貴族たちの視線は、クロエの魔法によって可視化された黒い魔素へと釘付けになっている。


 誰一人として、その料理へ近付こうとはしなかった。


 クロエは料理の前に立ったまま、静かに口を開く。


「どうやら説明が必要なようじゃな」


 その落ち着いた声は、大広間の隅々まで響き渡った。


「高濃度の魔素は、人体にとって猛毒じゃ」


 ざわり、と会場が揺れる。


 魔素は誰もが知る存在だった。


 魔法を使うための力。


 魔導具を動かすためのエネルギー。


 世界に満ちる根源の力。


 だからこそ、それが毒になるという言葉は、誰にとっても信じ難かった。


「毒……なのですか?」


 一人の貴族が震える声で尋ねる。


 クロエはゆっくりと頷いた。


「少量なら問題はない」


「人も動物も植物も、魔素と共に生きておる」


「じゃが、何事にも限度というものがある」


 そう言って黒い魔素を指し示した。


「これは明らかに許容量を超えておる」


 会場の空気はさらに重くなる。


 クロエは淡々と説明を続けた。


「このような高濃度の魔素を体内へ取り込めば、人は魔素中毒を引き起こす」


 聞き慣れない言葉に、多くの貴族が息を呑んだ。


「初期症状は発熱」


「頭痛」


「吐き気」


「強い倦怠感」


「やがて全身の魔力回路が暴走し始め」


「痙攣」


「意識混濁」


「臓器不全へ至る」


 説明が進むにつれ、広間のあちこちで顔色を失う者が増えていく。


 ミアも思わず身震いした。


 その時だった。


『嫌だ……』


 珍しくリリが青ざめていた。


『こんなの初めて見た……』


『近付きたくねぇな……』


 アルも険しい表情を浮かべる。


 普段なら好奇心旺盛な火の妖精まで警戒していた。


「二人とも……」


『魔素が濁ってる』


 リリが震える声で呟く。


『本来の魔素じゃない』


『無理やり押し込められてる感じがする』


『見てるだけで気持ち悪い……』


 妖精は魔粒子の身体を持つ存在だ。


 だからこそ、人間以上に魔素の異常へ敏感だった。


 二人の反応を見て、ミアは改めて確信する。


 あの料理は、本当に危険なのだ。


「そして――」


 クロエはそこで言葉を切った。


 会場は水を打ったように静まり返る。


 誰もが、その続きを待っていた。


「最悪の場合」


 重々しい声が響く。


「魔物になる」


 その瞬間、大広間の空気が凍り付いた。


「なっ……!?」


「魔物化だと!?」


「馬鹿な……!」


 悲鳴にも似た声があちこちから上がる。


 誰もが青ざめていた。


 魔物。


 それは人類の天敵。


 かつて世界を滅亡寸前まで追い込んだ災厄そのものだった。


「高濃度の魔素は肉体を変質させる」


 クロエは厳しい表情で告げる。


「理性を失い」


「肉体が歪み」


「やがて魔物へ堕ちる」


 重苦しい沈黙が広がった。


 エルンストの表情も険しい。


 ミアは思わず、自分とエルンストの前に置かれた料理へ視線を落とす。


 もし、自分が異変に気付かなかったら。


 もしエルンストが一口でも口にしていたなら。


 その先に待っていた未来を想像し、背筋が凍った。


『死ぬだけじゃ済まない……』


 アルが低く呟く。


『そんなの絶対嫌だ……』


 リリは不安そうにミアの肩へしがみついた。


 ミアはそっとリリの頭を撫でる。


 しかし、その手もわずかに震えていた。


「つまり……」


 軍務卿が絞り出すように言う。


「陛下とミア様は……」


 クロエは静かに頷いた。


「助からなかったじゃろうな」


 誰も反論できなかった。


 それほどまでに明確な殺意だった。


 命を奪うだけではない。


 未来の皇帝と未来の皇妃を魔物へ変えようとしたのである。


 帝国そのものを混乱へ陥れるための、極めて悪質な犯行だった。


 その時、皇兄クラウスが静かに一歩前へ進み出た。


 穏やかな笑みは消え、その瞳には皇族としての厳しい光が宿っている。


「皆、どうか落ち着いてください」


 落ち着き払った声が、大広間へ静かに響いた。


「犯人の狙いは、陛下とミアさんのお命だけではありません」


「この場を混乱させ、帝国全体を動揺させることにもあるのでしょう」


 その一言で、騒然としていた貴族たちは少しずつ冷静さを取り戻していく。


 クラウスは静かに弟へ向き直った。


「陛下」


「この場のことは私もお支えいたします」


 エルンストは力強く頷いた。


「ああ」


 兄弟はそれ以上言葉を交わさない。


 だが、その一瞬だけ交わされた視線には、互いへの揺るぎない信頼が宿っていた。


 会場にいた誰もが理解する。


 これは事故ではない。


 悪質ないたずらでもない。


 未来の皇帝と未来の皇妃だけを狙った、明確な暗殺未遂事件であることを。


 そして――。


 その犯人は今も、この会場のどこかに潜んでいる。


 そう思った瞬間、大広間の空気はさらに冷え込み、誰もが息を潜めるのだった。

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