第50話 祝宴の準備
ナルシス王国から帰還した翌日。
皇宮は、かつてないほどの慌ただしさに包まれていた。
廊下を忙しなく行き交う使用人たち。
次々と運び込まれる豪華な装飾品。
大広間では職人たちが巨大なシャンデリアを磨き上げ、庭園では庭師たちが色鮮やかな花々を整えている。
どこを見ても準備、準備、準備だった。
「一体、何事ですか……?」
ミアは思わず目を丸くした。
その様子を見ていた侍女が、にこやかに微笑む。
「婚約披露宴でございます」
「あ……」
ミアは小さく声を漏らした。
そうだった。
白竜皇オルドに認められたことで、エルンストとの婚約は正式に成立した。
つまり、その事実を帝国中へ公表しなければならない。
未来の皇帝と皇妃のお披露目。
それが婚約披露宴である。
「帝国中の貴族の皆様がお集まりになります」
「地方領主様方はもちろん、各省の重臣方もご出席なさいます」
侍女はどこか誇らしげに言った。
ミアは思わず固まる。
「帝国中……」
想像していた以上の規模だった。
ただの祝宴ではない。
未来の皇妃として臨む、最初の大舞台なのだ。
『大変そうだな』
アルがぽつりと呟く。
『私なら逃げる』
『お前はいつも逃げるじゃん』
『否定できない』
リリが真顔で頷いた。
思わずミアは苦笑する。
だが、笑ってばかりもいられなかった。
「ミアさん」
その時だった。
聞き慣れた声が響く。
振り返ると、クラリッサが立っていた。
皇太妃としての威厳と気品をまとった姿。
相変わらず隙のない佇まいだった。
ミアは慌てて頭を下げる。
「皇太妃陛下」
「こちらへ」
有無を言わせぬ口調だった。
数時間後。
ミアは心の底から後悔していた。
「背筋を伸ばしなさい」
「はい!」
「視線が泳いでいます」
「はい!」
「歩幅が狭いです」
「はい!」
厳しい。
とにかく厳しい。
礼の角度。
歩き方。
座り方。
笑顔の作り方。
貴族への挨拶。
次から次へと指導が飛んでくる。
ミアは必死だった。
だが、クラリッサに妥協はない。
「婚約披露宴には帝国中の視線が集まります」
クラリッサは真剣な表情で言った。
「あなた一人の問題ではありません」
「はい」
「失敗すれば笑われるのは、あなただけではない」
ミアは背筋をさらに伸ばした。
「皇帝陛下も」
「皇室も」
「帝国もです」
その言葉の重さに、思わず息を呑む。
「理解していますか?」
「……はい」
「本当に?」
鋭い問いだった。
ミアは姿勢を正し、真っ直ぐ前を見つめる。
「理解しています」
しばらく沈黙が流れる。
やがてクラリッサは小さく頷いた。
「なら結構です」
そして、ほんのわずかに表情を和らげる。
「及第点です」
ミアは思わず目を瞬かせた。
「え?」
「勘違いしないことです」
即座に返される。
「褒めているわけではありません」
「うっ……」
「最低限の水準に達したと言っただけです」
容赦がない。
だが、以前なら「まだ足りません」の一言で終わっていただろう。
それを思えば、大きな進歩だった。
「婚約披露宴に集まる者たちは、祝福するためだけに来るわけではありません」
クラリッサは真っ直ぐミアを見つめる。
「あなたが皇妃に相応しいか見極めるために来る者もいます」
ミアは小さく拳を握った。
「ですが」
クラリッサは続ける。
「白竜皇陛下が認めた方が怯える姿など、私は見たくありません」
その言葉に、ミアは顔を上げた。
「堂々としていなさい」
「未来の皇妃として」
短い言葉だった。
だが、その一言には確かな力があった。
ミアは深く頭を下げる。
「はい」
クラリッサは小さく頷く。
「その返事を忘れないことです」
そう言い残し、静かに部屋を後にした。
ミアはその背中を見送る。
厳しい。
本当に厳しい。
けれど、最近になって分かってきた。
クラリッサは決して意地悪で言っているわけではない。
誰よりも真剣に、自分と向き合ってくれているのだ。
その時だった。
「お疲れ様」
穏やかな声が響く。
振り返ると、皇兄クラウスが優しい笑みを浮かべて立っていた。
「クラウス皇兄殿下」
ミアは慌てて一礼する。
クラウスは苦笑しながら部屋へ入ってきた。
「母上の教育は厳しかっただろう?」
「……はい」
思わず本音が漏れる。
クラウスは懐かしそうに笑った。
「私も幼い頃は、何度叱られたことか」
「皇兄殿下もですか?」
「ああ。姿勢も礼儀も、少しでも乱れると容赦がなかった」
そう言って肩をすくめる。
「でもね」
「母上は期待している相手ほど厳しい」
「期待していない相手には、何も教えようとはしない」
ミアは思わず顔を上げた。
「だから、今日の厳しさは気に病まなくていい」
「母上なりに、君を家族として迎えようとしている証なんだ」
その言葉に、胸の奥が少しだけ軽くなる。
「ありがとうございます」
クラウスは穏やかに頷いた。
「婚約披露宴、頑張って」
「君ならきっと大丈夫だ」
そう言い残し、クラウスは静かに部屋を後にした。
◇
その背中を見送りながら、ミアはそっと胸へ手を当てる。
皇太妃クラリッサの厳しさ。
皇兄クラウスの優しさ。
そのどちらにも、自分を一人前の皇妃へ育てようという想いが込められているように思えた。
婚約披露宴まで、あと数日。
緊張はある。
不安もある。
けれど、逃げたいとは思わなかった。
支えてくれる人がいる。
見守ってくれる人がいる。
だから頑張れる。
ミアは窓の外を見上げる。
夕暮れの空が帝都シュヴァルツブルクを優しく染めていた。
ここが、自分の新しい居場所。
この国のために。
この家族のために。
そして、エルンストの隣に胸を張って立つために。
立派な皇妃になろう。
その決意は、少しずつ、しかし確かなものへと変わり始めていたのである。




