第37話 旅立ち
正式な婚約が決まってから数日が過ぎた。
皇宮での生活は以前にも増して慌ただしくなっていた。
皇妃教育に礼儀作法。
歴史や政治、各国情勢の学習。
未来の皇妃として身につけるべき知識は尽きることがない。
そんなある日の午後。
ミアは皇帝執務室へ呼び出されていた。
執務机の向こうでは、エルンストが山積みの書類に目を通している。
相変わらず多忙そうだ。
「ミア」
「はい」
エルンストは手を止め、顔を上げた。
「近いうちにナルシス王国へ向かう」
ミアは不思議そうに首を傾げる。
「ナルシス王国ですか?」
「ああ」
短く答えた後、エルンストは続けた。
「目的地は王都ルミエールだ」
「ルミエール……」
ナルシス王国の王都。
そして大聖女信仰の中心地として知られる場所だ。
エルンストは静かに告げる。
「婚約の報告を行う」
「報告……?」
「大聖女ミュゲ様へ」
その言葉にミアは思わず固まった。
大聖女ミュゲ・ジプソフィル。
三十年前、魔王によって荒廃し続けていた世界を救い、人々を長き苦難から解放した伝説の英雄。
その戦いは、一千年にも及んだ災厄に終止符を打ったと語り継がれている。
長き戦乱を終わらせ、人類に平和をもたらした救世主。
その名を知らぬ者はいない。
ナルシス王国の民にとっては英雄であり、
敬愛の対象であり、
憧れそのものだった。
そんな存在に会うなど、想像したこともない。
『えええええっ!?』
リリが飛び上がった。
『ミュゲ様!?』
『本物か!?』
アルまで目を丸くする。
『世界を救った人だぞ!?』
『歴史の教科書に載っている人だぞ!?』
『会えるのか!?』
『会えるのか!?』
二人は大騒ぎだった。
もちろん周囲には聞こえていない。
ミアは何とか平静を装う。
「その……なぜ報告を?」
素朴な疑問だった。
エルンストは落ち着いた口調で答える。
「大聖女ミュゲ様はナルシス王国の象徴だ」
「それだけではない」
少し間を置いて続ける。
「各国の王侯貴族からも深い敬意を払われている存在だ」
ミアは静かに耳を傾けた。
「白竜皇陛下による選定が終わり、婚約は正式に成立した」
「ならば報告するのが礼儀だ」
それは単なる私的な挨拶ではない。
一国の皇帝として、
未来の皇妃を伴う公式訪問。
れっきとした外交である。
「つまり……」
ミアは小さく呟いた。
「外交訪問なのですね」
「ああ」
エルンストは頷く。
「だからお前にも同行してもらう」
ミアの背筋が自然と伸びた。
未来の皇妃として迎える、
初めての公務。
その重みをひしひしと感じる。
『公務だって』
『偉くなったな』
『もう候補じゃないもんな』
『正式な婚約者だ!』
妖精たちは相変わらずだった。
すると――
突然、執務室の扉が勢いよく開いた。
「聞いたぞ!」
元気な声が響く。
クロエだった。
「ナルシスへ行くのじゃろう!」
エルンストが額を押さえる。
「なぜ知っている」
「当然じゃ!」
クロエは胸を張った。
「わしも行くぞ!」
「却下だ」
「却下されん!」
即答だった。
『出た』
『出たな』
アルが呟く。
『絶対来ると思った』
『私も』
リリも頷いた。
クロエは気付いていない。
「久しぶりじゃからのう!」
クロエは上機嫌だった。
「ルミエールも懐かしい!」
「ミュゲにも会いたい!」
「美味い店もある!」
最後の一言にエルンストがため息をつく。
「それが本音か」
「半分くらいは」
まったく悪びれない。
ミアは思わず笑ってしまった。
するとクロエも笑う。
「旅は良いぞ」
「新しい景色が見られる」
「新しい出会いもある」
「何より退屈せん!」
「最後が本音ですね」
ミアが言うと、クロエは豪快に笑った。
「うむ!」
その様子にミアの緊張も少しだけ和らぐ。
不安はある。
緊張もある。
けれど――
それ以上に楽しみだった。
伝説の大聖女との対面。
そして未来の皇妃としての初めての外交。
『旅だー!』
リリが飛び回る。
『ナルシス王国だ!』
『ルミエールだ!』
『ミュゲ様だ!』
『絶対すごいぞ!』
アルも珍しく興奮していた。
ミアは小さく苦笑する。
こうして、
ミアたちはナルシス王国へ向かうことになった。
大聖女への婚約報告。
未来の皇妃としての初めての外交。
そして――
新たな旅が始まろうとしていたのである。




