第27話 アルカ=ヴェル竜皇国
選定当日。
ミアはまだ夜も明けきらぬうちに目を覚ました。
窓の外は白かった。
昨夜から降り続いていた雪が、皇宮の庭園を静かに覆っている。
胸の奥が落ち着かない。
不安は消えていなかった。
それでも。
逃げるつもりはなかった。
『いよいよだな』
アルが言う。
『頑張ってね』
リリも励ますように笑った。
ミアは小さく頷く。
「うん」
身支度を整え、皇宮の正門へ向かう。
そこには既にエルンストの姿があった。
銀色の髪。
無表情な横顔。
いつも通りだった。
その姿を見ると少しだけ安心する。
「陛下」
「おはよう」
短いやり取りを交わし、二人は北へ向かった。
目指すのは聖山ヴェルグラン。
白竜皇オルドが住まう聖域である。
帝都を出て数日。
やがてミアの前に巨大な雪山が姿を現した。
天を突くような白銀の山脈。
頂は雲に隠れて見えない。
「大きい……」
思わず呟く。
エルンストは静かに頷いた。
「あれが聖山ヴェルグランだ」
山道を登り始める。
雪は深い。
風は冷たい。
だが整備された石段が続いており、人の往来があることが分かった。
登る。
ひたすら登る。
やがて雲の中へ入った。
視界が白く染まる。
何も見えない。
世界から切り離されたような感覚だった。
さらに進む。
そして――
雲を抜けた。
「え……」
ミアは足を止める。
目の前に広がっていたのは、想像を遥かに超える光景だった。
雲海の上。
聖山ヴェルグランの頂上付近に広がる巨大な盆地。
その中央に、美しい街が存在していた。
「アルカ=ヴェルだ」
エルンストが告げる。
白い石造りの家々。
透き通る湖。
雪を被った街路樹。
煙突から立ち上る暖かな煙。
そして、そのあちこちを小さな光の粒が飛び回っていた。
まるで神話の世界だった。
人々も歩いている。
だが。
ミアはすぐに違和感に気付いた。
「あの方たちは……」
白銀の髪。
金色の瞳。
人間離れした美貌。
そして時折見える白い鱗。
彼らは人間ではなかった。
「白竜だ」
エルンストが言う。
「人の姿を取って生活している」
ミアは目を丸くした。
もっと神秘的で近寄り難い存在だと思っていた。
だが違う。
市場で買い物をし、
子供と手を繋ぎ、
談笑しながら歩いている。
街並みも意外なほど質素だった。
豪奢な宮殿や宝飾で飾られているわけではない。
石造りの建物は実用的で、どこか素朴ですらある。
だが豊かだった。
文化があり、
暮らしがあり、
温もりがあった。
『思ったより普通だな』
アルが呟く。
『うん』
リリも頷いた。
ミアも同じ気持ちだった。
ただ一つ違うのは、ミアの目には街中を飛び回る妖精たちの姿が見えていることだった。
雪の結晶のような羽を持つ妖精が屋根の上で踊り、湖のほとりでは青白い光を放つ妖精たちが輪になって遊んでいる。
そして驚いたことに――
「あっ」
一体の妖精が白竜の少女の肩にちょこんと腰掛けた。
すると少女は自然な仕草でその妖精を指先に乗せる。
妖精は楽しそうにくるりと回った。
「見えてる……?」
ミアが思わず呟くと、エルンストがこちらを見た。
「何がだ」
「妖精です」
その言葉に、エルンストはわずかに首を傾げた。
「妖精か」
「はい。あの子、肩に乗っていましたよね」
ミアが少女の方を指差す。
エルンストは少女を見るが、妖精の方には視線が合っていないように見えた。
「もちろん見えている」
「え?」
ミアは思わず聞き返した。
「白竜は皆、妖精を見ることができる」
エルンストは淡々と続ける。
「妖精は昔からこの地で共に暮らしてきた存在だ」
『へえ』
アルが感心したように声を漏らす。
『じゃあ妖精が見えるのは珍しくないんだ』
リリも納得したようだった。
周囲を見れば、白竜たちはごく自然に妖精たちと接していた。
子供たちは妖精と追いかけっこをし、店先では妖精が商品の上に座っている。
店主はそれを見て苦笑しながら「売り物を食べるなよ」と声を掛ける。
通りの向こうでは白髪の老人が妖精と真剣な顔で話し込んでいた。
その妖精は腕を組み、偉そうに何度も頷いている。
「今日は雪が強くなるぞ、だそうだ」
「また当たるのか」
近くの白竜が苦笑する。
どうやら妖精から天候の話を聞いているらしい。
妖精たちもまた、この街の住人なのだと分かる光景だった。
ミアは少し嬉しくなった。
妖精が見えることで変わり者扱いされることもあったからだ。
ここでは、それが特別なことではないらしい。
しばらく街を進む。
すると、道行く白竜たちの視線が自然とミアへ集まり始めた。
「あら、人間の子?」
「本当に来たのか」
「選定の娘だろう?」
興味津々といった様子で声が飛ぶ。
敵意はない。
むしろ珍しいものを見るような反応だった。
一人の白竜の女性が近付いてきた。
「ねえねえ、人間の国って今どんな感じなの?」
「えっ?」
突然話しかけられ、ミアは目を瞬かせる。
「雪は降る? 食べ物は美味しい? 竜騎士って本当に空を飛び回ってるの?」
「ちょ、ちょっと待ってください」
質問が次々飛んでくる。
すると今度は別の白竜の青年まで加わった。
「帝都には面白い祭りがあるって聞いたぞ」
「人間は毎日働いているって本当か?」
「寿命が短いと聞くが、実際どれくらいなんだ?」
『なんだこいつら』
アルが呆れる。
『好奇心の塊だね』
リリが苦笑した。
ミアも少し戸惑ったが、思っていたよりずっと親しみやすい反応に肩の力が抜ける。
「えっと……祭りはありますし、毎日働いている人も多いです」
「ほう!」
「やっぱり本当だったか!」
白竜たちは妙に感心した様子で頷いた。
まるで遠い異国の話を聞く子供のようだった。
「お前たち、道を塞ぐな」
エルンストが静かに言う。
すると白竜たちは揃って肩をすくめた。
「おっと失礼」
「続きはまた今度聞かせてくれ」
「選定、頑張れよ人間の娘」
気軽に手を振りながら去っていく。
ミアはぽかんとその背中を見送った。
『思った以上に普通だな』
アルが改めて呟く。
『うん、普通だね』
リリも笑った。
ミアも思わず小さく笑う。
少なくとも、街の白竜たちは恐ろしい存在には見えなかった。
そんなやり取りをしながら進んでいると。
町の奥に、それは姿を現した。
「――――」
ミアは言葉を失った。
城だった。
雪山そのものを削り出したかのような白亜の城。
だが、思っていたほど絢爛豪華ではない。
無数の柱や高い尖塔はあるものの、過度な装飾は見当たらず、全体は驚くほど端正で静かな佇まいだった。
質素。
素朴。
それなのに美しい。
雪と石だけで形作られたようなその姿には、飾り立てる必要のない威厳があった。
皇宮とはまるで違う。
ただそこに存在しているだけで分かる。
人のための城ではない。
もっと古く。
もっと大きな存在のための城。
白竜皇オルドの居城。
『でかい……』
リリが呆然と呟く。
『これは反則だろ……』
アルも珍しく圧倒されていた。
その時だった。
ずしり。
身体が重くなる。
胸が苦しい。
呼吸が浅くなる。
「っ……」
ミアは思わず足を止めた。
威圧感。
それも尋常ではない。
本能が叫んでいる。
この城の主は危険だと。
人間とは比べ物にならない存在だと。
足が震える。
指先が冷える。
怖い。
帰りたい。
そんな感情が込み上げてくる。
「ミア」
声がした。
振り向く。
エルンストだった。
青い瞳が真っ直ぐミアを見つめている。
「大丈夫か」
ミアは必死に笑った。
「たぶん……」
全然大丈夫ではない。
だが。
エルンストはそれ以上何も言わなかった。
ただ静かに隣へ立つ。
それだけだった。
けれど。
ほんの少しだけ勇気が湧いた。
すると近くを通りかかった年配の白竜が、ミアの様子に気付いて穏やかに笑った。
「初めて来た者は皆そうなる」
「え……?」
「竜皇陛下の気配は強いからな。だが安心するといい」
白竜は優しい声で続ける。
「竜皇陛下はお優しい方だ。必要以上に恐れることはない」
その言葉に、周囲にいた白竜たちも頷いた。
「そうそう」
「見た目も別に怖くないぞ」
「いつも穏やかで、困っている者は放っておけないお方だ」
口々に語られる言葉に、ミアは少し目を瞬かせた。
恐ろしい存在だと思っていた白竜皇を、彼らはどこか親しみを込めて語っている。
その様子に、不思議と胸の緊張が和らいだ。
ミアは深く息を吸う。
冷たい空気が肺を満たした。
そして再び城を見上げる。
白竜皇オルド。
千年以上の時を生きる帝国の守護者。
その存在が、この城のどこかにいる。
ミアは拳を握り締めた。
怖い。
不安だ。
けれど。
逃げるわけにはいかない。
ミアは一歩を踏み出した。
巨大な城門が静かに近付いてくる。
白竜皇との運命の対面は、もうすぐそこまで迫っていたのである。




