SS 第5話 妖精の呪い
社交界の混乱は、しばらく収まることがなかった。
「誰か止めてくださいませぇ!」
「帽子が!」
「ドレスがぁ!」
イザベラ・フォン・ヴァルデン公爵夫人をはじめ、取り巻きの婦人たちは全身ずぶ濡れになりながら、庭園のテラスを右へ左へと逃げ回る。
しかし、不思議なことに雨はどこまでも追い掛けてきた。
右へ逃げても。
左へ逃げても。
東屋へ駆け込んでも。
黒雲は、まるで意思を持っているかのように婦人たちの頭上だけを覆い続ける。
「な、何ですのこれはぁ!」
「きっと呪いですわ!」
「神罰ではありませんこと!?」
誰かが叫ぶ。
婦人たちは半泣きになりながら逃げ惑い、優雅だった社交界は最後まで大混乱のまま幕を閉じた。
一方その頃。
庭園の大樹の枝では、小さな二人の妖精がその様子を見下ろしていた。
『ぷっ』
リリが思わず吹き出す。
『やりすぎてないよね?』
『もちろんだ』
アルは腕を組み、満足そうに頷いた。
『紅茶は火傷しないくらいの熱さ』
『風は髪が乱れるくらい』
『雨も風邪をひかない程度だ』
『ちゃんと反省するくらいにしておいたぞ』
二人は顔を見合わせる。
『大成功!』
『大成功!』
ひとしきり笑うと、二人は何事もなかったかのようにミアの肩へ戻った。
その頃になっても、ミアはまだ状況を飲み込めていなかった。
「いったい……何が起きたのでしょう?」
『不思議だね』
『本当だな』
二人とも白々しい。
ミアは苦笑しながらも、それ以上追及することはなかった。
それから数日後。
帝都では、一つの奇妙な噂が広まり始める。
――皇妃陛下を悪く言った者だけが、不思議な災難に遭う。
――紅茶が突然熱湯になる。
――突風で髪や帽子が吹き飛ばされる。
――晴れているのに、自分の頭上だけ豪雨が降る。
最初は誰も信じなかった。
だが、被害に遭った婦人たちが皆同じ出来事を証言したことで、人々は次第に噂を信じ始める。
「皇妃陛下には妖精が付いているらしい」
「皇妃陛下を悪く言うと、妖精に悪戯されるそうだ」
「いや、悪戯ではない」
「妖精の呪いだ」
その呼び名は瞬く間に社交界を駆け巡り、やがて帝都中へと広まっていった。
以来、皇妃ミアを公然と悪く言う者は、不思議と誰もいなくなった。
もちろん、その真相を知る者はいない。
知っているのは、ミアとリリ、アル。
そして――宮廷筆頭魔導士クロエ・アストレアだけだった。
社交界で起きた奇妙な出来事を耳にしたクロエは、研究室で一人、小さく笑みを漏らす。
「ほっほっほ……なるほどのぅ」
皇妃の周囲で起こる、あまりにも都合の良すぎる”偶然”。
長年魔法を研究してきたクロエにとって、その正体を察することは難しくなかった。
「妖精というものは、昔から気に入った者にはどこまでも優しい」
「じゃが……大切な者を傷付ける相手には、昔から容赦がない」
そう呟き、湯気の立つ紅茶を一口飲む。
「まあ、命を奪うようなことはせん」
「少々痛い目を見るくらいが、ちょうどよい薬になるじゃろう」
紫色の瞳を細め、クロエは楽しそうに微笑んだ。
もっとも――。
彼は最後まで、その真相を誰にも語ることはなかった。
妖精たちの秘密を知る者は、知っていても決して口にしない。
それが、この世界で妖精と共に生きる者たちの、暗黙の了解だったのである。




