第16話 食卓
その日の夕方。
ミアは侍女に案内され、皇宮の食堂へ向かっていた。
皇族との夕食。
そう聞いただけで胃が痛くなる。
ローズフィールド王国でも王族との食事は経験していた。
だが、それは婚約者ヘンリーが隣にいたからだ。
今は違う。
ここは異国。
周囲は皇族ばかり。
失敗は許されない。
そんな思いが、ミアの緊張をさらに強くしていた。
『顔が固いぞ』
アルが呆れたように言う。
『緊張しすぎだよ』
リリも苦笑した。
「だって……」
ミアは小さく呟く。
「皇帝陛下とのお食事なのよ?」
『もう会ったじゃん』
「会うのと食事は違うの!」
思わず言い返すと、リリは楽しそうに笑った。
『ふふっ、ミアらしい』
そんなやり取りをしているうちに、食堂へ到着した。
重厚な扉が静かに開かれる。
室内は暖かな灯りに包まれていた。
長い食卓。
美しく盛り付けられた料理。
そして席についていたのは、二人だけだった。
エルンスト。
そしてクラウス。
ミアは少し意外そうな表情を浮かべる。
クラリッサの姿がない。
その視線に気付いたのか、クラウスが穏やかに微笑んだ。
「母上は今日は体調が優れなくてね」
「そうでしたか……」
ミアは小さく頷く。
離宮で見た、あの悲しげな横顔を思い出していた。
まだ深い悲しみの中にいるのだろう。
「ミア」
エルンストが静かに声を掛けた。
ミアは慌てて顔を上げる。
「こちらへ」
示されたのは、エルンストの隣の席だった。
「よろしいのですか?」
「ああ」
短い返事。
それだけだった。
だが、その声音は自然で温かい。
まるで最初からそこがミアの席であるかのようだった。
ミアは緊張しながら腰を下ろした。
やがて夕食が始まる。
料理はどれも美味しそうだった。
しかし味はよく分からない。
緊張で、それどころではなかった。
失敗してはいけない。
粗相をしてはいけない。
そんなことばかり考えてしまう。
ナイフを持つ手にも自然と力が入った。
すると、向かいの席から穏やかな声が聞こえる。
「今日は雪が穏やかですね」
クラウスだった。
エルンストは静かに頷く。
「ああ」
「明日は晴れそうだ」
「そのようですね」
短いやり取り。
それでも兄弟らしい自然な空気が流れていた。
ミアは少し驚く。
本来なら皇帝になっていたはずの人物。
そして白竜皇に選ばれた皇帝。
二人の間には、もっと険悪な空気があると思っていた。
だが実際は違う。
互いを尊重し合う、穏やかな兄弟に見えた。
その時だった。
つるり。
「あっ」
ナイフが手から滑り、小さな音を立てた。
ミアの身体が固まる。
しまった。
失敗した。
怒られる。
呆れられる。
そう思った。
だが――。
「大丈夫か」
聞こえてきたのは、エルンストの落ち着いた声だった。
怒っていない。
責めてもいない。
ただ心配している。
「は、はい……!」
ミアは慌てて答える。
エルンストは静かに頷いた。
「なら良かった」
それだけだった。
それだけで終わった。
クラウスも穏やかに微笑む。
「緊張しているのかな?」
「も、申し訳ありません……」
「謝ることではないよ」
優しい声だった。
「私も初めて父上と食事をした時は、似たようなものだった」
ミアは思わず顔を上げる。
「クラウス皇兄殿下も……ですか?」
「ああ」
クラウスは肩をすくめ、少し照れくさそうに笑った。
「その時はスープを盛大にこぼしてしまってね」
ミアは目を丸くする。
「本当ですか?」
「もちろん」
クラウスは笑う。
「父上には大笑いされたよ」
その様子があまりにも自然で、ミアも思わず笑みをこぼした。
張り詰めていた緊張が、少しだけほどけていく。
食事はそのまま穏やかに続いた。
誰も失敗を責めない。
誰もミアを見下さない。
それが当たり前であるかのように。
やがて夕食は終わった。
部屋へ戻ったミアは暖炉の前へ腰を下ろす。
窓の外では、雪が静かに降り続いていた。
『変な人たちだな』
アルがぽつりと呟く。
『うん』
リリも頷く。
ミアは小さく笑った。
「本当に」
変だった。
優秀で、誰からも慕われるクラウス皇兄殿下。
そして冷徹皇帝と呼ばれるエルンスト。
二人とも、想像していた人物像とはまるで違っていた。
特にエルンストだ。
どうしてあんなに自然なのだろう。
どうしてあんなに優しいのだろう。
何か見返りを求めるわけでもない。
何かを期待するわけでもない。
ただ当たり前のように手を差し伸べてくれる。
ミアは窓の外の雪を見上げた。
胸の奥が少しだけ温かい。
けれど戸惑う。
今まで知らなかった感情だから。
だからミアは小さく呟いた。
「どうして……そんなに優しいの……?」
その問いの答えを。
ミアは、まだ知らなかったのである。




