第172話 魔法学
法廷は静まり返っていた。
検察側が提示した「記憶改竄」という新たな可能性は、再び人々の心へ疑念を生み出していた。
裁判長は静かに被告席へ視線を向ける。
「被告クロエ」
「検察側の主張について、反論はありますか」
クロエは静かに立ち上がった。
「あります」
落ち着き払ったその一言だけで、法廷は再び静寂に包まれる。
クロエは裁判長へ一礼すると、ゆっくりと口を開いた。
「まず結論から申し上げましょう」
「検察側の主張は、魔法学の基礎を誤解しております」
その言葉に、法廷が小さくざわめいた。
検察官は眉をひそめる。
クロエは構わず続けた。
「確かに、記憶改竄魔法は存在します」
「そして、それは帝国法によって使用を禁じられた禁呪の一つです」
傍聴席からどよめきが起こる。
「やはり存在するのか……」
クロエは静かに頷いた。
「しかし、その効果は検察側が主張するような万能のものではありません」
「記憶改竄魔法が干渉できるのは、あくまでも記憶の一部です」
「ある出来事を曖昧にしたり、忘れさせたり、断片的な記憶を書き換えたりすることは理論上可能です」
「ですが、人の人格や信念、価値観、生き方そのものを書き換えることはできません」
法廷は再び静まり返る。
クロエは淡々と説明を続けた。
「例えば、本来民を救いたいと願う者へ、『民を滅ぼしたい』という思想を植え付けることは不可能です」
「人の信念とは、長い年月をかけて育まれるもの」
「禁呪といえど、それを作り替えることは魔法学上あり得ません」
裁判官たちは真剣な表情で耳を傾けていた。
クロエはさらに続ける。
「加えて、検察側は三人全員へ同じ偽りの記憶を植え付けた可能性を主張しました」
「しかし、それは理論上さらに不可能です」
「複数人へ全く同一の記憶を植え付け、その状態を長期間維持する魔法は存在しません」
「仮に試みたとしても、記憶には必ず矛盾や綻びが生じます」
「ですが、わしら三人の証言には、そのような矛盾は一切ありませんでした」
「それこそが、記憶改竄ではない何よりの証左です」
法廷は再びざわめく。
「なるほど……」
「確かに筋が通っている」
「魔法学では不可能なのか」
検察官は悔しげに唇を噛み締めた。
裁判長は陪席判事二名と短く協議し、静かに口を開く。
「裁判所としても、クロエ殿の説明は魔法学に基づく合理的な見解であると判断します」
「検察側が主張する『記憶改竄の可能性』は、現時点では推測の域を出ないものと認めます」
その言葉に、法廷の空気が大きく変わった。
検察側最後の切り札は、魔法学によって真正面から否定されたのである。
ミアは安堵の息を漏らした。
「クロエ様……」
『さすがクロエ様!』
リリが嬉しそうに羽を震わせる。
『やっぱり婆さんは最強だな』
アルも満足そうに頷いた。
一方、皇兄クラウスは静かに目を閉じる。
(やはりクロエ殿は、すべてを見越していた)
(これで検察側の理論は崩れた)
法廷の空気は再び変わり始める。
検察側が積み上げた最後の論理は崩れ去り、帝国の天秤は再び被告側へと静かに傾き始めていた。




