第163話 裏切り者
法廷はなおも騒然としていた。
禁呪――服従の呪文。
その使用を巡り、裁判長と陪席判事たちは協議を続けている。
傍聴席のざわめきも一向に収まる気配はない。
「認められるわけがない」
「司法が禁呪を使うなど前代未聞だ」
「絶対に却下される」
誰もがそう考えていた。
しかし、その空気を破ったのはクロエだった。
「裁判長」
老魔導士は静かに一歩前へ進み出る。
「もし服従の呪文の使用を認めていただけるのであれば、その執行は、わし自らが務めます」
その一言に、法廷の空気が凍りついた。
「なっ……!?」
「自ら術者になるというのか!?」
検察官でさえ驚きを隠せない。
裁判長は厳しい眼差しでクロエを見据える。
「被告であるあなたが、自ら術者になると?」
「はい」
クロエは一切ためらうことなく頷いた。
「わしほど、この呪文を正確に扱える者は帝国内にはおりますまい」
その揺るぎない口調が、かえって法廷の疑念を深めていく。
そして、クロエはさらに驚くべき提案を口にした。
「加えて、わしは皇帝エルンスト陛下と未来の皇妃ミア・ランベルト殿下に、主従契約を結ぶことを提案します」
一瞬。
法廷から音が消えた。
そして次の瞬間、怒号にも似たどよめきが巻き起こる。
「主従契約だと!?」
「被告同士で!?」
「何を考えている!」
「正気とは思えん!」
未来の皇妃ミアは思わず立ち上がった。
「クロエ様!」
「それでは……!」
言葉にならない。
エルンストも静かにクロエを見つめる。
その表情は変わらない。
しかし、その提案の真意だけは読み取ることができなかった。
『クロエ、本気なの!?』
リリは羽を震わせながら叫ぶ。
『そんな契約を結んだら……』
『自分から首を差し出すようなもんじゃねぇか!』
アルも険しい表情を浮かべた。
傍聴席では疑念が一気に広がっていく。
「血迷ったのか、あの宮廷筆頭魔導士は……」
「いや、違う」
「助かるために皇帝を売る気だ」
「ついに寝返ったんだ」
「宮廷筆頭魔導士も、ここまでか……」
誰もがそう信じ始めていた。
検察官は満足そうに口元を緩める。
「なるほど」
「被告同士で互いを拘束する契約ですか」
「実に興味深い提案ですな」
その声音には、勝利を確信した余裕が滲んでいた。
一方、皇兄クラウスは静かにクロエを見つめ続ける。
(クロエ殿……)
(あなたほどの人物が、本当にこのような愚かな提案をするのか……?)
胸に芽生えたのは疑念ではなく、拭い切れない違和感だった。
クロエは決して浅はかな人物ではない。
必ず何か理由がある。
しかし、その理由だけは見えてこない。
法廷中の誰もがクロエを疑う中、ただ一人、クロエだけは静かだった。
その老いた瞳に迷いはない。
すべては真実へ辿り着くため。
そして、エルンストとミア、この帝国を救うため。
誰にも理解されぬまま、老魔導士は自ら「裏切り者」という汚名を背負おうとしていたのである。




