第12話 冷徹皇帝エルンスト
翌朝。
ミアはほとんど眠ることができなかった。
窓の外では雪が降り続いている。
白い息を吐きながら、鏡の前で身支度を整える。
皇帝との謁見。
ついにその時が来たのだ。
『顔色悪いぞ』
アルが言う。
「眠れなかったもの」
『そりゃそうだよね』
リリも苦笑した。
『冷徹皇帝だもん』
その言葉にミアの肩がぴくりと震える。
冷徹皇帝。
エルンスト。
戦場では敵軍を壊滅させる氷の皇帝。
冷酷。
無慈悲。
感情を持たない男。
旅の途中で聞いた噂はどれも恐ろしいものばかりだった。
だから怖い。
怖くないはずがない。
「失礼いたします」
使用人が部屋へ入ってくる。
「お時間でございます」
ミアは小さく頷いた。
逃げることはできない。
皇妃候補としてここへ来たのだから。
廊下を歩く。
広い。
そして静かだ。
皇宮の使用人たちは皆礼儀正しい。
だが余計な言葉は話さない。
その静けさが緊張を増幅させる。
やがて巨大な扉の前へ辿り着いた。
「陛下がお待ちです」
使用人が頭を下げる。
ミアの心臓が跳ねた。
扉が開く。
広い謁見の間だった。
高い天井。
巨大な柱。
白銀を基調とした荘厳な空間。
その奥。
玉座の前に一人の青年が立っていた。
ミアは息を呑む。
銀色の髪。
氷のような青い瞳。
整った容姿。
そして圧倒的な存在感。
若い。
思っていたよりずっと若い。
だが。
威圧感は凄まじかった。
まるで雪山そのものが人の姿を取ったようだった。
無表情。
寡黙。
冷たい眼差し。
確かに噂通りだった。
ミアは慌てて膝をつく。
「ミア・ランベルトにございます」
声が少し震えた。
沈黙。
長い沈黙。
エルンストは何も言わない。
ミアの緊張はどんどん高まっていく。
何か失礼があっただろうか。
気に入らなかっただろうか。
やはり自分のような人間は歓迎されていないのだろうか。
そんな不安が頭を埋め尽くす。
そして。
ようやくエルンストが口を開いた。
「長旅ご苦労だった」
「――え?」
思わず顔を上げてしまう。
予想していた言葉ではなかった。
責められると思った。
値踏みされると思った。
冷たい言葉を向けられると思った。
だが違った。
最初に向けられたのは労いの言葉だった。
ミアは目を瞬かせる。
エルンストは静かに続けた。
「北への旅は厳しかっただろう。雪にも慣れていないと聞いている」
「い、いえ……皆さんによくしていただきましたので……」
うまく言葉が出てこない。
戸惑っていた。
噂と違う。
あまりにも違う。
「体調はどうだ」
「問題ありません」
「そうか」
短い返答。
だが、その声音には確かな安堵が滲んでいた。
ミアは思わず瞬きを繰り返す。
その短いやり取りの中に敵意はなかった。
軽蔑もなかった。
ましてや嘲笑もない。
ただ純粋な気遣いだけがあった。
(どうして……?)
理解できない。
冷徹皇帝ではなかったのか。
恐ろしい人物ではなかったのか。
目の前にいる青年は無愛想だった。
確かに無表情だった。
だが。
優しかった。
少なくともミアにはそう見えた。
エルンストはしばらくミアを見つめた後、静かに言う。
「顔を上げてくれ」
ミアはゆっくりと顔を上げる。
青い瞳と視線が合った。
冷たい色だった。
けれど。
不思議と怖くなかった。
「ヴァイスラント帝国へようこそ」
その言葉に。
ミアは思わず目を見開いた。
歓迎された。
自分が。
初めて。
心の奥が少しだけ温かくなる。
婚約破棄を告げられたあの日から、ずっと凍りついていた場所が溶けていくようだった。
エルンストはそれ以上何も言わない。
だが、その一言だけで十分だった。
ミアは胸の前でそっと手を握る。
この国でなら。
ここでなら。
もう一度やり直せるかもしれない。
そんな小さな希望が芽生えていた。
そしてミアはまだ知らない。
この出会いが。
自分の人生を大きく変えることになるのを。
まだ知らなかったのである。




