第145話 用途不明の予算
静まり返った帝国議会議場。
壇上に立つ帝国監査局長は、ゆっくりと監査報告書を開いた。
「これより、魔導暖房器具事業に関する監査結果をご報告いたします」
厳かな声が議場へ響く。
議員や貴族たちは息を潜め、その一言一句に耳を傾けていた。
皇族席では、エルンストも静かな表情で報告書へ視線を向けている。
隣に座るミアもまた、緊張した面持ちで議場を見つめていた。
『監査って緊張するね』
『でも、すぐ終わるさ!』
ミアの肩に腰掛けたリリとアルが、小さな声で笑い合う。
その無邪気な声に、ミアも小さく微笑み返した。
監査とは、国家事業が適正に行われていることを確認するためのもの。
そう信じて疑わなかった。
監査局長は最初の資料を掲げる。
「まずは、会計監査についてご説明いたします」
係官たちが議員へ資料を配布していく。
紙をめくる音だけが、広い議場に静かに響いた。
「監査の結果、魔導暖房器具事業において、用途が明確でない予算が複数確認されました」
その言葉に、議場がわずかにざわめく。
局長は壁面の魔導投影板へ視線を向けた。
「こちらをご覧ください」
投影板には一冊の帳簿が映し出される。
『特別予算 金貨二千枚』
『用途――記載なし』
続いて別の資料。
『秘密予算』
『詳細記録なし』
さらにもう一冊。
『支出済』
『使用目的 未記載』
一つひとつは決して大きな金額ではない。
どれも単独で見れば、事務処理上の記載漏れとして片付けられる程度の内容だった。
やがて、一人の議員が静かに手を挙げる。
「局長」
「この程度であれば、単なる記載漏れではありませんかな」
別の議員も同意するように頷く。
「毎年これほどの国家予算を扱うのです」
「多少の事務的な不備は起こり得ます」
「現時点で不正と断定するのは早計ではないでしょうか」
議場には賛同の声が広がった。
「確かに」
「それだけでは何とも言えんな」
「まだ判断材料が足りぬ」
監査局長は静かに頷く。
「ご指摘のとおりです」
「本監査局も、これらだけをもって不正と断定するものではありません」
その言葉に、多くの議員が安堵したような表情を浮かべた。
しかし、局長は静かに続ける。
「ですが――」
一拍置き、議場全体を見渡した。
「用途不明の予算は、一件だけではありません」
係官たちが新たな帳簿を運び込む。
一冊。
二冊。
三冊。
さらに四冊。
円卓の上へ次々と積み上げられていく帳簿を目にし、議場の空気は少しずつ変わり始めた。
「これらはすべて異なる年度に計上されたものです」
「しかも、いずれも用途の記録が残されておりません」
静かなざわめきが広がる。
「こんなにあるのか……」
「偶然とは思えんな」
「何か理由があるのでは……」
皇兄クラウスも資料へ目を落とした。
(確かに違和感はある……)
(だが、それだけだ)
(これだけで陛下が不正を働いたなど、とても思えない)
皇族席のエルンストもまた、静かに帳簿を見つめていた。
(このような予算があったのか……)
国家事業の細かな会計処理は各省庁へ委ねられている。
皇帝であっても、すべての帳簿を逐一確認しているわけではない。
だからこそ、彼にとっても初めて目にする資料だった。
ミアも不思議そうに帳簿を見つめる。
「用途が書かれていないだけ……なのでしょうか」
『そうだよ、きっと記載漏れだよ!』
『あとでちゃんと説明があるって!』
リリとアルは気楽に笑う。
クロエは腕を組み、小さく唸った。
「まだ何とも言えぬのう」
監査局長は静かに報告書を閉じた。
「以上が第一の報告です」
「本監査局は、これらを直ちに不正と断定するものではありません」
「しかし、通常では説明のつかない記録であることも、また事実です」
その言葉に、議場は再び静まり返った。
まだ誰も皇帝を疑ってはいない。
まだ誰も国家反逆など考えてはいない。
だが、小さな違和感は確かに人々の心へ芽生え始めていた。
そして、その小さな疑念こそが、一年以上もの歳月をかけて黒幕たちが積み上げてきた陰謀の、最初の一歩だった。




