第139話 揺れる貴族たち
帝国議会の開催が正式に発表されてから数日。
その知らせは、帝都の貴族社会へ瞬く間に広がっていった。
侯爵家の晩餐会。
伯爵家の茶会。
そして、貴族たちが集う社交倶楽部。
話題はどこへ行っても、一つだった。
「監査報告をご存じですか」
「暖房器具事業について調査が進んでいるそうです」
ある侯爵が静かに眉をひそめる。
「ただの定例監査ではないらしい」
「臨時議会まで招集されたと聞く」
隣にいた老伯爵も小さく頷いた。
「儂も長く議会へ出ておるが、監査報告だけでこれほど厳重な招集は見たことがない」
さらに別の議員が周囲を見回した。
「警備も異様だ」
議会棟の入口には通常の倍近い近衛騎士が配置され、入場する者すべての身分証が厳しく確認されているという。
「何か起きるのか?」
「いや……何も聞いていない」
「国家事業というのは、暖房器具事業のことだろう?」
「監査だけで、ここまで厳戒態勢になるものなのか?」
誰も答えを持ってはいなかった。
ただ一つ、皆が同じ違和感を抱いている。
何かが起ころうとしている。
そんな漠然とした不安だけが、静かに貴族社会へ広がり始めていた。
やがて、一人の若い子爵が、おそるおそる口を開く。
「……本当に不正なのでしょうか」
「皇帝陛下が、そのようなことを?」
誰もすぐには答えなかった。
ヴァイスラント帝国の人々にとって、皇帝エルンストは決して私腹を肥やすような人物ではない。
民のために戦い。
民のために働き。
民のためだけを思い、改革を進めてきた皇帝である。
「私は信じられません」
一人の老伯爵が静かに言った。
「暖房器具によって、どれだけの民が救われたことか」
「私の領地でも、凍死者は激減しました」
「そのようなお方が不正など……考えられませぬ」
別の侯爵も力強く頷く。
「私も同感です」
「陛下ほど清廉なお方はいない」
「何かの間違いでしょう」
だが、その一方で別の声も上がった。
「しかし、監査局が動いているのも事実です」
「監査報告だけで臨時議会を開くとは尋常ではありません」
「火のないところに煙は立たぬ、とも申します」
その一言に、再び場の空気が重くなる。
信じたい。
だが、監査局という公的機関が動いている以上、何もないとも言い切れない。
貴族たちの心は、静かに揺れ始めていた。
その頃、帝都の別の屋敷でも同じような会話が交わされていた。
「私は陛下を信じる」
「いや、だからこそ事実を知るべきだ」
「監査結果を待とう」
「すべては議会で明らかになる」
誰も断定はしない。
誰も皇帝を罪人とは呼ばない。
それでも、疑念という小さな種は、貴族社会のあちこちで静かに芽吹き始めていた。
一方その頃。
皇城の地下深く。
秘密の執務室では、グレゴールとレオンハルトが報告を受けていた。
「予定どおりです」
側近が頭を下げる。
「貴族たちの間でも意見が分かれ始めております」
レオンハルトは静かに微笑んだ。
「人は最初から敵にはなりません」
「まずは迷わせることが大切なのです」
グレゴールもゆっくりと頷く。
「信頼は、一瞬では崩れぬ」
「だからこそ、小さな疑念を積み重ねる」
「その積み重ねが、やがて信頼を不信へと変えていく」
二人は静かに笑みを交わした。
その頃、皇城の魔導研究室では、エルンストたちが新たな魔導具の試験結果を確認していた。
「今回も成功ですね」
ミアが嬉しそうに微笑む。
クロエも満足そうに頷いた。
「うむ。帝国の暮らしは、また一歩豊かになるのう」
エルンストも試作品へ静かに目を向ける。
「すぐに量産準備へ入ろう」
『やったー!』
『またみんなが喜ぶね!』
リリとアルは研究室いっぱいを飛び回り、無邪気な笑い声を響かせていた。
その笑顔とは対照的に、帝都では少しずつ人々の心が揺れ始めている。
信じる者。
疑う者。
まだ決定的な亀裂ではない。
だが、その小さな揺らぎは、やがて帝国全土を巻き込む大きな波となり、誰も止めることのできない運命へと繋がっていくのだった。




