第134話 揺れる皇兄
帝国監査局による極秘調査が始まってから、しばらくの時が流れた。
調査の存在を知る者は、ごく限られている。
だが、どれほど秘密裏に進められていたとしても、その噂まで完全に封じることはできなかった。
ある日の午後。
皇兄クラウス・フォン・ヴァイスラントの執務室を、一人の文官が訪れる。
「失礼いたします、殿下」
「何でしょう」
クラウスが顔を上げると、文官は少しためらうように口を開いた。
「監査局が、魔導暖房器具事業について特別監査を行っているとの話を耳にいたしました」
「……監査?」
クラウスはわずかに目を見開く。
「確かな情報なのですか」
「正式な発表ではございません」
「ですが、会計局や認可工房では、帳簿の提出が相次いでいるようです」
文官は一礼すると、静かに部屋を後にした。
一人残されたクラウスは、窓の外へ静かに視線を向けた。
「監査か……」
魔導暖房器具事業は、皇帝エルンストが中心となって進めてきた国家事業である。
帝国中の人々を寒さから救い、多くの命を守った偉大な事業だった。
だからこそ、監査が行われると聞いても、不安より先に別の思いが胸に浮かぶ。
「むしろ、良い機会かもしれない」
クラウスは静かに呟いた。
「魔導暖房器具事業は、多くの民を救った国家事業だ」
「監査が行われても、何も問題は見つからないはずだ」
彼はエルンストを心から信じていた。
弟は私利私欲で動くような人間ではない。
民のためだけを考え、自らを犠牲にしてでも帝国を豊かにしてきた皇帝である。
「何も問題はない」
「正しいことをしてきたのだから」
その確信は、少しも揺らぐことはなかった。
だからこそ、監査へ口を挟むつもりもない。
「調査は公正であるべきだ」
「皇族だからといって、特別扱いされるべきではない」
クラウスは穏やかに微笑んだ。
「きっと、すべて終われば安心できる」
そう信じていた。
一方その頃。
皇城の地下深く。
秘密の執務室では、グレゴールとレオンハルトが静かに向かい合っていた。
「皇兄殿下にも監査の話が届いたようです」
レオンハルトの報告に、グレゴールは小さく頷く。
「予想どおりだ」
「殿下は、この監査を通常の監査だと思っておられる」
「だからこそ、自ら止めようとはなさらない」
レオンハルトは薄く微笑んだ。
「陛下を信じておられるからこそ、監査の結果も信じてくださる」
「それこそが、我々の望みです」
グレゴールは静かに目を閉じる。
「善人ほど、正義を疑わぬ」
「公正な監査だと思えば、最後まで見守ってくださる」
「その善意こそが、我々にとって最も都合の良い武器となる」
二人は静かに笑みを交わした。
一方、魔導研究室では、エルンスト、ミア、クロエが新たな魔導具の試作品を囲み、改良を重ねていた。
「もう少し魔力効率を上げられそうですね」
ミアが笑顔で言うと、クロエも嬉しそうに頷く。
「うむ。完成も近いのう」
エルンストは試作品を見つめ、小さく頷いた。
「必ず、人々の役に立つ」
『頑張ろう!』
『みんなが待ってるよ!』
リリとアルは研究室いっぱいを飛び回り、明るい笑い声を響かせていた。
その平穏な日常とは対照的に、帝国の運命は静かに狂い始めている。
皇兄クラウスは、監査によって事業の正しさが証明されると信じていた。
だが、その監査そのものが、すでに黒幕たちの描いた筋書きの上で進められていることを、彼はまだ知らない。
善意があるからこそ、人は疑わない。
信頼が深いからこそ、人は裏切りを想像しない。
そして、その揺るぎない善意こそが――黒幕たちにとって、最も利用しやすい武器だった。




