第132話 匿名の密告
帝国監査局による極秘調査が始まってから数日。
調査は水面下で進められ、その存在を知る者はごくわずかだった。
当然、皇帝エルンストにも、皇兄クラウスにも知らされていない。
そんなある日の朝。
監査局の受付へ、一通の封書が届けられた。
差出人の名は記されていない。
封蝋も施されていない、ごく質素な封筒だった。
「匿名の手紙です」
受付係は不思議そうに首を傾げながら、それを監査局長のもとへ運ぶ。
局長は静かに封を切り、中の羊皮紙へ目を落とした。
そこには、乱れのない端正な文字で、短くこう記されていた。
『皇帝直属魔導研究室では、秘密裏に軍事研究が行われている。』
『証拠は会計帳簿と秘密予算を調べれば分かる。』
『認可工房への魔法石搬入記録にも注目されたし。』
監査局長は眉をひそめた。
「……秘密研究だと?」
側近の監査官も手紙を読み、険しい表情を浮かべる。
「偶然とは思えません」
「現在調査中の内容と一致しております」
局長はしばらく黙考した後、静かに口を開いた。
「差出人は不明か」
「はい」
「筆跡にも心当たりはありません」
「投函した者の姿も確認できておりません」
部屋は重苦しい沈黙に包まれた。
まるで、この密告状が監査の内容を知っていたかのようだった。
局長は羊皮紙を静かに折りたたむ。
「現時点では、これも一つの情報として扱う」
「内容を鵜呑みにするな」
「だが、無視もするな」
「引き続き極秘調査を続行する」
「承知しました」
監査官たちは一斉に頭を下げた。
その中で、一人だけ静かに目を伏せる監査官がいた。
黒幕側の人間である。
誰にも気付かれぬよう、その口元には一瞬だけ笑みが浮かんだ。
その密告状は、監査局へ偶然届けられたものではない。
宰相グレゴールと外務大臣レオンハルトが用意した、自作自演の一通だった。
同じ頃。
皇城の地下深く。
秘密の執務室では、グレゴールとレオンハルトが静かに向かい合っていた。
「監査局には届いたようです」
レオンハルトが報告すると、グレゴールは満足そうに小さく頷く。
「よい」
「人は匿名であっても、自ら調べている内容と一致すれば信じ始める」
「調査は、さらに深まるだろう」
レオンハルトは冷たい微笑を浮かべた。
「しかも監査局は、自分たちが真実へ近づいていると思い込む」
「実際には、我々が敷いた道を歩いているだけとも知らずに」
二人は静かに笑みを交わした。
一方その頃。
皇城の魔導研究室では、エルンスト、ミア、クロエが新たな魔導具の試験を行っていた。
「成功です!」
淡い光を放つ魔導具を見つめ、ミアが嬉しそうに声を上げる。
クロエも満足げに頷いた。
「うむ。これで実用化も近いのう」
エルンストも小さく口元を緩める。
「人々の暮らしは、さらに豊かになる」
『やったー!』
『また大成功だね!』
リリとアルは研究室いっぱいを飛び回り、無邪気な笑い声を響かせる。
そこには、誰かを傷つけようという思いは一片もない。
あるのは、人々を幸せにしたいという純粋な願いだけだった。
しかし、その善意のすぐ隣では、一通の匿名の密告状が新たな疑惑を生み出していた。
偽りの証拠。
偽りの帳簿。
そして、偽りの密告。
黒幕たちは、一つひとつ静かに駒を進めながら、誰にも気付かれることなく、帝国史上最大の冤罪へ向けて盤面を整えていくのだった。




