第129話 届かぬ政策
春の柔らかな陽射しが皇城の窓から差し込み、執務室を穏やかに照らしていた。
皇兄クラウス・フォン・ヴァイスラントは、自室の机へ向かい、一枚の書類を静かに見つめている。
それは数週間前、自らまとめ上げた救済政策だった。
魔導暖房器具の普及によって職を失った商人や職人たちを支援するための政策である。
失業者への生活支援。
認可工房への再就職支援。
新たな技術を学ぶための職業訓練。
廃業した商会への再建支援。
一つひとつ、帝国の未来を思い、人々を救いたいという願いを込めて練り上げた内容だった。
「……そろそろ動き始めても良い頃だと思うのだが」
クラウスは小さく呟き、書類へ視線を落とす。
提出してから、すでにしばらくの日が過ぎていた。
通常であれば、担当部署で審議が行われ、皇帝の裁可を経て政策は実施される。
しかし今回は、何の連絡も届いていない。
「何か不備でもあったのだろうか……」
そう考えた時、扉を叩く音が部屋へ響いた。
「失礼いたします」
入室してきたのは、宰相グレゴールだった。
クラウスは立ち上がり、穏やかな笑みを向ける。
「グレゴール。ちょうど良いところでした」
「救済政策の件ですが、その後はいかがでしょうか」
グレゴールは一瞬だけ目を細めたが、すぐにいつもの穏やかな表情へ戻り、丁寧に一礼した。
「ご安心ください、殿下」
「現在、財政調整を進めております」
「財政調整……ですか?」
「はい」
グレゴールは落ち着いた口調で説明を続けた。
「殿下の政策は大変素晴らしいものです。しかし帝国全土で実施するとなれば、相応の予算が必要となります」
「各省との調整や予算配分に、もう少し時間を要しております」
クラウスは納得したように頷いた。
「なるほど……」
「確かに、これほど大きな政策ですからね」
「ええ」
グレゴールも静かに頷く。
「拙速に進めるより、万全の体制で実施した方が、より多くの民を救うことができます」
「今しばらく、お待ちいただければと存じます」
その説明には何一つ不自然な点はなかった。
宰相として当然の判断。
そう思えた。
「分かりました」
「よろしくお願いいたします」
クラウスは安心したように微笑み、深く頭を下げた。
グレゴールも恭しく一礼する。
「必ず、殿下のご期待にお応えいたします」
そう言い残し、静かに執務室を後にした。
廊下へ出ると、人目のない場所で外務大臣レオンハルトが待っていた。
「いかがでしたか」
グレゴールは歩みを止めることなく答える。
「問題ない」
「殿下は何一つ疑っておられぬ」
レオンハルトは口元に薄い笑みを浮かべた。
「さすがは殿下です」
「人を信じることを疑われない」
「だからこそ利用しやすい」
グレゴールは静かに頷く。
「政策案は、まだ皇帝陛下のお手元へは届けておらぬ」
「もうしばらく眠っていてもらおう」
「必要になる、その時までな」
二人は意味深く視線を交わすと、そのまま静かに廊下の奥へ消えていった。
一方、執務室ではクラウスが窓辺に立ち、穏やかな帝都を見下ろしていた。
街には今日も人々の笑顔があふれている。
暖房器具に救われた子どもたち。
活気を取り戻した市場。
希望に満ちた春を迎えた帝国。
クラウスは優しく微笑み、小さく呟く。
「もう少し待っていてください」
「必ず、皆さんを救う制度にしますから」
その言葉に偽りはない。
クラウスは今もなお、すべてが帝国の未来のために進んでいると信じていた。
だが、その善意から生まれた政策は、皇帝エルンストのもとへ届くことなく、黒幕たちの手の中で静かに眠り続けていた。
誰にも知られることなく。
来るべき告発の日、その政策さえも陰謀の一部として利用される時を待ちながら。




