第10話 北へ
馬車は北へ向かっていた。
ヴァイスラント帝国。
冷徹皇帝エルンストが治める北方の大国。
ミアを乗せた馬車は、故郷を離れてから何日も街道を進み続けていた。
窓の外を流れる景色は、少しずつ変わっていく。
緑豊かな平原。
広大な森。
大きな河川。
見知らぬ街。
見知らぬ人々。
その全てが、ミアを故郷から遠ざけていった。
最初の数日は実感がなかった。
まるで長い夢を見ているようだった。
婚約破棄。
政略結婚。
国外への輿入れ。
全てがあまりにも突然だったからだ。
だが日を重ねるごとに、現実は鮮明になっていく。
もう戻れない。
ローズフィールド王国には。
あの屋敷には。
かつての居場所には。
戻れない。
その事実が、少しずつ心に染み込んでいた。
『寒くなってきたな』
アルが窓辺に腰掛けながら言った。
ミアは窓の外を見る。
確かに寒い。
吐く息が白くなっている。
木々の葉も少なくなり、景色はどこか色を失っていた。
「本当ね」
毛布を少し引き寄せる。
まだ帝国へ入っていない。
それなのに、この寒さだった。
『でも綺麗だよ!』
リリは楽しそうに窓の外を飛び回っている。
風の妖精らしく、寒さなど気にならないらしい。
『雪だ!』
リリが声を上げた。
ミアは顔を上げる。
空から白いものが舞っていた。
雪だった。
人生で初めて見る雪だった。
「綺麗……」
思わず呟く。
白い結晶は静かに大地へ降り積もる。
森を白く染める。
山を白く染める。
世界そのものを白く塗り替えていく。
その光景は幻想的だった。
だが同時に、
どこか寂しくもあった。
まるで自分自身のようだったからだ。
全てを失い、
一人になった。
そんな気がしていた。
『ミア』
リリが肩へ降りてくる。
『大丈夫?』
「うん」
ミアは微笑んだ。
だが、その笑顔は少し弱々しい。
不安だった。
怖かった。
ヴァイスラント帝国がどんな国なのか分からない。
皇帝エルンストがどんな人なのかも分からない。
聞こえてくるのは恐ろしい噂ばかりだった。
冷酷。
無慈悲。
氷の皇帝。
敵を容赦なく討ち滅ぼす戦場の怪物。
そんな人物のもとへ嫁ぐ。
怖くないはずがなかった。
「もし本当に怖い人だったら、どうしよう……」
小さく呟く。
『大丈夫だろ』
アルが言った。
「どうして?」
『知らねぇ』
即答だった。
ミアは思わず吹き出した。
アルは顔をしかめる。
『でもな』
『少なくとも、会う前から諦めるのは違うだろ』
その言葉に、
ミアは少しだけ目を見開いた。
会う前から諦める。
確かにそうだった。
まだ何も知らないのだ。
エルンストのことも。
ヴァイスラント帝国のことも。
それなのに勝手に怖がっていた。
ミアは窓の外を見る。
雪は降り続いている。
白い世界が広がっていた。
そして旅はさらに続く。
数日後。
ついに国境を越えた。
ヴァイスラント帝国。
その土地へ足を踏み入れた瞬間、空気が変わった気がした。
冷たい。
だが澄んでいる。
厳しい。
だが美しい。
そんな国だった。
さらに北へ進む。
雪は深くなる。
山々は白銀に輝く。
そして――
ある日の昼。
馬車が丘を越えた時だった。
ミアは息を呑んだ。
巨大な城壁。
白銀の大地に広がる壮大な都市。
その中央には、巨大な王城がそびえ立っている。
威厳。
荘厳。
圧倒的な存在感。
今まで見てきたどの街とも違った。
御者が誇らしげに言う。
「見えてまいりました」
「帝都シュヴァルツブルクでございます」
ミアは窓へ手を添えた。
胸が高鳴る。
不安。
恐怖。
緊張。
そして、
ほんの少しの期待。
様々な感情が入り混じる。
ここから新しい人生が始まる。
婚約破棄された令嬢としてではなく。
一人の人間として。
ミアは小さく呟いた。
「ここが……ヴァイスラント帝国」
その言葉と共に、
運命の物語は新たな幕を開けようとしていたのである。




