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第9話 故郷との別れ

 出発の日は、よく晴れていた。


 雲ひとつない青空だった。


 まるで旅立ちを祝福しているような天気だったが、ミアにはそう思えなかった。


 早朝。


 ランベルト伯爵家の正門前には、一台の馬車が停まっていた。


 ヴァイスラント帝国へ向かうための馬車である。


 護衛も用意されていた。


 皇妃候補として送り出される以上、最低限の体裁は整えなければならないのだろう。


 ミアは小さな鞄を抱えながら馬車を見つめた。


 これに乗れば。


 もうこの国へ戻ることはないかもしれない。


 そう思っても、不思議と涙は出なかった。


 涙はもう枯れてしまったのかもしれない。


『本当に行くんだな』


 アルが肩を竦める。


「うん」


『まだ逃げてもいいんだぞ?』


「どこへ?」


 ミアは少しだけ笑った。


 アルは答えられなかった。


 行く場所などない。


 それは皆分かっていた。


 やがて屋敷の扉が開く。


 父と母が姿を現した。


 その後ろからエミリーも出てくる。


 見送りだった。


 だが。


 どこか形式的だった。


 貴族が親族を送り出す。


 ただそれだけ。


 そんな空気だった。


「身体には気を付けるんだぞ」


 父が言う。


「はい」


「ヴァイスラント帝国でもランベルト家の名を忘れるな」


「はい」


 短いやり取りだった。


 まるで社交辞令のようだった。


 母も微笑む。


「寒い国だそうよ」


「暖かい服を着るのよ」


「はい」


 やはりそれだけだった。


 ミアは気付いてしまう。


 誰も引き留めない。


 誰も寂しがらない。


 誰も。


 ミアがいなくなることを惜しんでいない。


 その事実が胸を静かに刺した。


 エミリーが前へ出る。


 昨日より少しだけ沈んだ顔をしていた。


「お姉様」


「なに?」


「元気でね」


「ありがとう」


 それ以上の言葉はなかった。


 もう話すことはない。


 昨夜で全て終わったのだ。


 姉妹としても。


 家族としても。


 そしてミアは周囲を見渡した。


 一人だけ足りない。


 最初から分かっていた。


 分かっていたけれど。


 それでも無意識に探してしまう。


 ヘンリー。


 かつて婚約者だった人。


 未来の夫になるはずだった人。


 だが。


 最後まで現れることはなかった。


 見送りにも来ない。


 手紙もない。


 言葉もない。


 別れの挨拶すらない。


 それが答えだった。


 ミアは小さく息を吐いた。


 胸は少し痛んだ。


 けれどもう泣かなかった。


 もう十分傷付いたからだ。


『最低だな』


 アルが吐き捨てる。


『本当に最低』


 リリも珍しく怒っていた。


 ミアは小さく首を振る。


「もういいの」


 そう。


 もう終わったことだ。


 今さら何を言われても変わらない。


 やがて御者が声を上げる。


「そろそろ出発のお時間です」


 ミアは頷いた。


 そして最後に屋敷を見上げる。


 十七年間暮らした家。


 楽しかった思い出もある。


 苦しかった思い出もある。


 その全てが詰まった場所だった。


「さようなら」


 誰にも聞こえない声で呟く。


 故郷へ。


 家族へ。


 過去の自分へ。


 そして馬車へ乗り込んだ。


 扉が閉まる。


 ゆっくりと馬車が動き始める。


 窓の外で父と母が手を振っていた。


 エミリーもいる。


 その姿は少しずつ小さくなっていく。


 やがて見えなくなった。


 完全に。


 何も見えなくなった。


 ミアは窓から顔を離す。


 その時。


 肩に小さな重みを感じた。


 リリだった。


『ミア』


 反対側にはアルがいる。


『今は俺たちがいる』


 ぶっきらぼうな言葉だった。


 けれど温かかった。


 ミアは少しだけ目を細める。


「ありがとう」


 その言葉にリリが笑う。


 アルは照れ臭そうに顔を逸らした。


 こうして。


 婚約破棄された令嬢は故郷を後にする。


 向かう先は北方の大国。


 ヴァイスラント帝国。


 冷徹皇帝が治める国。


 ミアはまだ知らない。


 そこで待つ運命を。


 そして。


 自分の人生を大きく変える出会いを。


 まだ知らなかったのである。

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