第8話 エミリー
ヴァイスラント帝国への出発は明日の朝に決まった。
荷造りは既に終わっている。
持って行く荷物は驚くほど少なかった。
衣類。
本。
少しばかりの装飾品。
それだけだ。
十七年間暮らした家だというのに、持ち出したいと思う物はほとんどなかった。
窓の外は静かな夜だった。
月明かりが庭を照らしている。
ミアはぼんやりと夜空を眺めていた。
もう二度と戻らないかもしれない。
そう思っても、不思議と寂しさはなかった。
その時だった。
控えめなノックの音が響く。
「お姉様?」
聞き慣れた声だった。
エミリーである。
「入っていい?」
「どうぞ」
扉が開く。
エミリーは少し緊張した様子で部屋へ入ってきた。
手には小さな箱を持っている。
ミアの向かいへ腰掛ける。
しばらく沈黙が続いた。
昔ならこんなことはなかった。
姉妹でたくさん話をした。
一緒に遊んだ。
一緒に笑った。
だが今は何を話せばいいのか分からない。
先に口を開いたのはエミリーだった。
「明日、出発なんだよね」
「そうね」
「遠いんでしょう?」
「そうみたい」
短いやり取り。
会話は続かない。
エミリーは膝の上で指を握りしめていた。
「怖くないの?」
ミアは少し考えた。
「怖いわ」
正直に答える。
「冷徹皇帝なんて呼ばれている人だもの」
「だよね……」
エミリーは苦笑した。
そして少しだけ俯く。
「ごめんなさい」
その言葉に、ミアは驚かなかった。
きっと来ると思っていたからだ。
「何が?」
静かに尋ねる。
エミリーは唇を噛んだ。
「全部」
小さな声だった。
「婚約のこと」
「ヘンリー様のこと」
「お姉様のこと」
ミアは黙って聞いていた。
「本当はね」
エミリーは震える声で言う。
「ずっと羨ましかったの」
ミアは目を瞬かせた。
「お姉様は何でもできたから」
「勉強も」
「礼儀作法も」
「ダンスも」
「みんなお姉様を褒めてた」
違う。
そう言おうとした。
だが言葉にならなかった。
「だからヘンリー様が私を見てくれた時、嬉しかった」
エミリーは俯いたまま続ける。
「絶対に渡したくなかった」
静かな告白だった。
けれど。
ミアには十分すぎるほど伝わった。
エミリーは知っていたのだ。
ミアがどれだけ努力していたか。
どれだけヘンリーを想っていたか。
その上で選んだ。
ヘンリーを。
王妃の座を。
自分を。
「そう」
ミアは静かに答えた。
怒りはなかった。
悲しみも。
不思議なほど何もなかった。
もう全て終わった後だったからだ。
エミリーは顔を上げる。
どこか怯えたような目だった。
「怒らないの?」
「怒る理由がないもの」
「でも……」
「ヘンリー様はエミリーを選んだ」
ミアは微笑んだ。
「それだけよ」
エミリーは何も言えなかった。
その言葉が何より重かったからだ。
勝ったはずなのに。
なぜか胸が苦しい。
そんな顔をしていた。
しばらくして。
エミリーは持っていた小箱を差し出した。
「これ」
「?」
「お姉様に」
箱を開く。
中には小さな髪飾りが入っていた。
幼い頃。
二人で王都のお祭りへ行った時に買った物だった。
「まだ持っていたのね」
「うん」
エミリーは笑う。
少し泣きそうな顔で。
「ずっと宝物だったから」
ミアはそっと髪飾りを握り締めた。
懐かしかった。
あの頃は本当に仲の良い姉妹だった。
だが。
もう戻れない。
戻ってはいけない。
「ありがとう」
ミアは言った。
「大事にするわ」
エミリーは嬉しそうに笑った。
そして。
どこか寂しそうにも見えた。
立ち上がる。
扉へ向かう。
そこで足を止めた。
「お姉様」
「なに?」
「幸せになってね」
その言葉に。
ミアは少しだけ目を細めた。
「エミリーも」
それが最後だった。
扉が閉まる。
静寂が戻る。
リリも。
アルも。
何も言わなかった。
ミアは窓の外を見る。
もう姉妹ではいられない。
嫌いになったわけではない。
許せないわけでもない。
ただ。
歩む道が違ってしまった。
それだけだ。
こうして。
ミアは過去との最後の別れを済ませた。
明日から始まるのは、新しい人生だった。




