第126話 外交文書
数日後。
ヴァイスラント皇城、外務省。
昼間は各国からの使者や外交官たちで賑わうその場所も、深夜ともなれば静寂だけが支配していた。
廊下には人影ひとつなく、燭台の炎だけが長い影を壁へ映し出している。
外務大臣レオンハルトは、最奥にある文書保管室へ静かに足を踏み入れた。
重厚な扉が音もなく閉ざされる。
そこには数名の側近たちが待機していた。
部屋の中央には大きな机が据えられ、その上には帝国が誇る外交文書の数々が整然と並べられている。
アルカ=ヴェル竜皇国との親書。
北方諸侯との友好条約。
西方諸国との通商協定。
各国との外交記録。
いずれも長い年月をかけて築き上げられた、平和と信頼の証だった。
レオンハルトは、その中の一枚を静かに手に取る。
「……実に見事だ」
「皇帝陛下の治世となってから、外交はこれまでになく安定している」
ヴァイスラント帝国は、戦ではなく対話を選び続けてきた。
周辺諸国との友好関係は深まり、白竜皇オルドが治めるアルカ=ヴェル竜皇国とも強い信頼で結ばれている。
国境には長く平穏な日々が続き、人々は安心して暮らせるようになっていた。
本来であれば、それは帝国が誇るべき偉業だった。
しかし――。
レオンハルトは静かに呟く。
「だからこそ、利用価値がある」
側近たちは一斉に頭を下げた。
「始めよ」
短い命令とともに、静かな作業が始まる。
机には本物の外交文書が並べられ、その隣には真新しい羊皮紙が置かれた。
一人の文官が慎重に筆を走らせる。
文章全体は変えない。
ただ、一文だけを書き加える。
『詳細は皇帝直属魔導研究室が管理する』
別の文書には、
『会談は非公開とする』
という一文が加えられた。
さらに別の外交記録には、
『輸送内容は極秘扱いとする』
という文言が追記されていく。
いずれも、それだけを見れば違法とは言えない。
外交上の機密事項として十分に存在し得る表現だった。
しかし、それらが後に別の資料と結び付けられた時、まったく異なる意味を持ち始める。
一人の側近が思わず息を呑んだ。
「これでは……」
「まるで何かを隠しているように見えます」
レオンハルトは静かに頷く。
「そのために作るのだ」
さらに別の書類が開かれる。
国境警備強化に関する報告書。
本来は、防衛体制を整えるための文書だった。
そこへ、わずか一行だけを書き加える。
『必要に応じ、軍を国境付近へ展開する』
たった一文。
それだけで、防衛計画は戦争準備を思わせる文書へと姿を変えてしまう。
作業は淡々と続いた。
紙質。
筆跡。
インクの色。
封蝋の押し方。
さらには保管年数による劣化まで計算し、本物と見分けがつかぬよう細部まで再現されていく。
やがて、一人の側近が不安げに口を開いた。
「ここまで偽造して、本当に見破られないのでしょうか」
レオンハルトは静かに笑う。
「一枚だけなら疑われる」
「二枚なら偶然と思われる」
「だが、何十枚、何百枚もの文書が同じ方向を示せば、人はそれを真実と呼ぶ」
部屋は静まり返った。
そして彼は、ゆっくりと言葉を続ける。
「真実は一つでよい」
「人は真実そのものではなく、積み重ねられた証拠を信じる」
「その証拠を作ることこそ、我々の役目だ」
誰一人、口を開かなかった。
その意味を、全員が理解していたからだ。
一方その頃。
皇城の魔導研究室では、エルンスト、ミア、クロエが新たな魔導具の研究に励んでいた。
「この術式なら、魔力効率をさらに高められるかもしれません」
ミアの言葉に、クロエは満足そうに頷く。
「うむ。実に面白い発想じゃ」
リリとアルは設計図の上を元気いっぱいに飛び回る。
『次も絶対みんなが喜ぶよ!』
『もっと便利なものを作ろう!』
研究室には笑顔と希望が満ちあふれていた。
そのすぐ足元で、自分たちを破滅へ導く偽りの外交文書が、一枚、また一枚と作られていることなど、誰一人知る由もない。
真実は、一つしか存在しない。
しかし、偽りの証拠は、いくらでも作ることができる。
こうして外務大臣レオンハルトは、未来に訪れる裁きの日のため、平和を証明するはずだった外交文書へ、静かに”疑念の種”を植え付け始めるのであった。




