第125話 善意の提案
春の足音が、少しずつ近づき始めた頃。
皇兄クラウスの執務室では、一つの政策案がようやく完成を迎えようとしていた。
机の上には、何度も書き直された書類が整然と並べられている。
魔導暖房器具の普及によって職を失った商人や職人たち。
彼らを救うための救済制度である。
クラウスは最後の一枚へ静かに目を通すと、小さく息を吐いた。
「……これで、ようやく形になった」
書類には、具体的な施策が丁寧にまとめられていた。
失業者への一時的な生活支援。
認可工房への優先雇用。
新たな技術を学ぶための職業訓練制度。
廃業した商会への再建支援。
どれも利益や権力のためではない。
帝国を想い、人々を想う、純粋な善意から生まれた政策だった。
窓の外では、春を待つ柔らかな陽光が皇城を照らしている。
クラウスはその景色を見つめ、穏やかに微笑んだ。
「これで少しでも、取り残された人々の力になれればいい」
その時、扉を叩く音が静かに響いた。
「失礼いたします」
入室してきたのは、宰相グレゴールだった。
「殿下。政策案が完成したと伺いました」
「ええ」
クラウスは嬉しそうに書類を差し出す。
「まだ草案ですが、陛下へご相談したいと思っています」
グレゴールは書類を受け取り、一枚一枚丁寧に目を通していく。
その表情は終始穏やかで、やがて深く頷いた。
「……実に素晴らしい内容でございます」
「失業者だけではなく、その家族の生活まで考えられている」
「まさに殿下のお人柄が表れた政策です」
クラウスは少し照れくさそうに笑う。
「そう言っていただけると安心します」
「私は、ただ困っている人を放っておけないだけです」
グレゴールは静かに頭を下げた。
「そのお志こそ、帝国には必要なのです」
「もしよろしければ、この政策案は私が責任を持って陛下へお届けいたしましょう」
「正式な政策文書として整え、しかるべき形で上奏いたします」
クラウスは何の疑いもなく頷いた。
「ありがとうございます」
「よろしくお願いいたします」
その笑顔を見つめながら、グレゴールも穏やかな笑みを返す。
「必ず、殿下のお志を陛下へお届けいたします」
やがて書類を抱えたグレゴールは、一礼して執務室を後にした。
人目のない廊下まで歩くと、その穏やかな表情は静かに消え失せる。
そこへ、レオンハルトが姿を現した。
「完成しましたか」
グレゴールは抱えた書類へ視線を落とし、小さく頷く。
「ああ」
「実に見事な政策だ」
「だからこそ、利用価値がある」
レオンハルトは書類を受け取り、ゆっくりとページをめくった。
「善意ほど疑われないものはありません」
「この政策案も、やがて我々の描く筋書きの一部となるでしょう」
グレゴールは静かに口元を緩める。
「殿下は最後まで善人でいてくだされば、それでよい」
「善意から生まれた書類ほど、後になって都合よく利用できるものはない」
二人は短く視線を交わすと、静かにその場を後にした。
一方、執務室ではクラウスが窓辺に立ち、帝都の街並みを見つめていた。
暖房器具に救われた人々。
そして、これから救われるはずの人々。
その未来を思い描きながら、穏やかな笑みを浮かべる。
その善意が、すでに黒幕たちの陰謀へ組み込まれていることを――。
この時のクラウスは、まだ知る由もなかった。




