第110話 甘い囁き
数日後。
皇兄クラウス・フォン・ヴァイスラントは、帝都の名門貴族の屋敷を訪れていた。
表向きは、冬の慰労会。
古くから帝国へ尽くしてきた貴族たちが集う、ささやかな親睦の席である。
クラウスは特に疑うこともなく、その招待を受け入れた。
広間には豪華な料理が並び、暖炉の火が穏やかに揺れている。
貴族たちは次々と杯を掲げ、皇兄殿下を歓迎した。
「皇兄殿下」
「本日はお越しいただき、誠にありがとうございます」
「皆様がお元気そうで何よりです」
クラウスは柔らかな笑みを浮かべ、一人ひとりと言葉を交わす。
誰に対しても分け隔てなく接するその姿は、やはり多くの者から慕われていた。
やがて宴もたけなわとなり、人払いが済んだ頃。
一人の老貴族が静かに口を開いた。
「殿下」
「少々、お耳に入れたいことがございます」
クラウスは穏やかな表情のまま頷く。
「何でしょう」
老貴族は周囲を見回し、さらに声を潜めた。
「皇帝陛下は、誠に素晴らしいお方です」
「そのことに異論はございません」
「私も同感です」
クラウスは迷いなく答えた。
老貴族は静かに頷き、言葉を続ける。
「ですが……少々、民ばかりをご覧になり過ぎてはおられませんか」
その一言に、クラウスの表情がわずかに揺れた。
「どういう意味ですか」
「暖房器具の普及によって、多くの民は救われました」
「しかしその一方で、古くから帝国を支えてきた商会や工房は、大きな損失を受けております」
別の貴族も続ける。
「薪を扱う商人。」
「暖炉を作る職人。」
「従来の暖房用魔導具を製造していた工房。」
「彼らの中には、廃業へ追い込まれた者も少なくありません」
クラウスは静かに目を伏せた。
それもまた事実だった。
新しい技術は、多くの命を救う一方で、古い産業へ大きな変化をもたらす。
それは時代の流れであり、避けることのできない現実でもあった。
「貴族は帝国の柱です」
中年の貴族が静かに口を開く。
「その柱が揺らげば、いずれ帝国そのものも揺らぎます」
クラウスは落ち着いた口調で答えた。
「時代が変われば、新しい技術が古いものに取って代わることもあります」
「それは避けられないことでしょう」
「ええ、おっしゃる通りです」
老貴族は素直に頷いた。
「だからこそ、その変化を導く者が必要なのです」
「民だけではなく」
「貴族の声にも耳を傾けられる方が」
その言葉に、クラウスは静かに考え込んだ。
老貴族は穏やかな笑みを崩さない。
「殿下は民からも慕われ、貴族からも信頼されております」
「我らの声を受け止めてくださるのは、殿下しかおられません」
「……買いかぶりすぎです」
クラウスは苦笑を浮かべる。
「私はただの皇兄です」
「国を治めておられるのは、エルンストです」
しかし老貴族は、ゆっくりと首を横へ振った。
「だからこそ、申し上げているのです」
「我らは陛下へ逆らいたいのではありません」
「ただ、帝国がより良い国であり続けてほしいだけなのです」
「殿下のお力を、お貸しいただけませんか」
その言葉に、嘘は感じられなかった。
少なくとも、表面上は。
クラウスはしばらく黙考する。
民のため。
貴族のため。
どちらも帝国には欠かすことのできない存在だ。
その均衡を保つこともまた、皇族としての務めではないのか。
そう考えた末に、ゆっくりと口を開いた。
「……分かりました」
「話だけは聞きましょう」
「ですが、陛下を害するようなことであれば、私は決して協力しません」
その返答に、老貴族たちは安堵したように微笑んだ。
「もちろんでございます」
「我らも帝国を愛する者です」
「すべては帝国の未来のために」
穏やかな笑み。
丁寧な言葉。
その裏に隠された本心を、クラウスはまだ知らない。
彼は善意から耳を傾けた。
ただ帝国をより良い国にしたい。
その一心で。
しかし、その小さな一歩こそが、黒い陰謀へと続く入口だった。
窓の外では、静かに雪が降り続いている。
白く降り積もる雪は、やがて足跡を覆い隠していく。
それと同じように。
誰にも気付かれぬまま、陰謀は静かに、その姿を形作り始めていた。




