第109話 心の隙間
夜更け。
皇城の一室では、暖炉の火だけが静かに揺れていた。
第一皇子クラウス・フォン・ヴァイスラントは、一人、窓辺に立ち、雪降る帝都を静かに見つめていた。
家々の窓からは暖かな灯りが漏れ、魔導暖房器具によって温もりを得た人々の暮らしが、その光の向こうに広がっている。
「……本当に、良い国になった」
自然と笑みがこぼれた。
弟であるエルンストが皇帝となってから、帝国は大きく変わった。
民を第一に考える政治。
魔導暖房器具の普及。
豊かになっていく街並み。
多くの人々の笑顔。
どれも、兄として誇らしい成果だった。
エルンストだからこそ成し遂げられた未来。
そのことを、クラウスは誰よりも理解していた。
だが――。
窓ガラスへ映る自分の姿を見つめた瞬間、胸の奥で眠っていた記憶が静かによみがえる。
まだ父が健在だった頃。
皇帝ヴィルヘルム四世は、幼いクラウスへ穏やかな眼差しを向けて語っていた。
『クラウス』
『お前はいずれ、この国を背負うことになる』
『民を愛し、民に愛される皇帝になりなさい』
その言葉を胸に刻み、クラウスは誰よりも努力した。
帝王学。
政治。
歴史。
剣術。
外交。
皇帝になるために必要なすべてを学び続けた。
それが第一皇子として生まれた、自分の使命なのだと信じていたからだ。
しかし、運命は静かにその道を変えた。
父は病に倒れ。
白竜皇オルドによる皇帝選定の日が訪れる。
玉座の間に響いた厳かな声は、今でも耳に焼き付いている。
『第九十九代皇帝として選ぶ者は――エルンスト・フォン・ヴァイスラント』
その瞬間。
自分が歩み続けてきた未来は、静かに閉ざされた。
もちろん、不満はなかった。
白竜皇の選定は絶対である。
そして何より、エルンストは選ばれるにふさわしい人物だった。
だからこそ、兄として祝福した。
心から。
偽りなく。
それでも――。
(……もし)
(父上がもう少し長く生きておられたなら)
(もし白竜皇様の選定が違っていたなら)
(あの玉座に座っていたのは、私だったのだろうか)
そんな考えが胸をよぎる。
クラウスは苦笑し、小さく首を振った。
「情けないな……」
「今さら考えても仕方のないことだ」
エルンストを妬んでいるわけではない。
皇帝の座を奪いたいとも思わない。
ただ、長い年月をかけて目指してきた未来を失った者だけが抱える、小さな未練。
それだけは、どうしても心のどこかに残り続けていた。
暖炉の火がぱちりと音を立てる。
クラウスは目を閉じ、小さく息を吐いた。
「忘れよう」
「私は兄として、これからもエルンストを支える」
その決意に嘘はない。
しかし、その胸の奥には、まだ埋めきれない小さな心の隙間が残っていた。
そして――。
その隙間を、静かに見つめる者たちがいた。
皇城の廊下の奥。
明かりの届かぬ暗がりで、一つの人影が足を止める。
「……やはり、殿下も人の子か」
誰にも聞こえぬほど小さな呟き。
その口元には、わずかな笑みが浮かんでいた。
「ならば――まだ付け入る隙はある」
人影は足音一つ立てることなく踵を返し、闇の中へ溶けるように姿を消した。
クラウスは、まだ知らない。
その胸に残る小さな未練が、やがて帝国全土を揺るがす陰謀の入口となることを。
静かだった冬の夜は、誰にも気付かれぬまま、新たな嵐の訪れを告げていた。




