第108話 届かなかった玉座
第一皇子クラウス・フォン・ヴァイスラント。
先帝ヴィルヘルム四世の長子にして、本来なら皇帝となるはずだった人物。
温厚な人柄と誠実な振る舞いで知られ、民にも貴族にも広く慕われる人格者である。
その日、クラウスは皇城の庭園をゆっくりと歩いていた。
雪化粧をまとった庭園は静寂に包まれ、白い吐息だけが冬の空へと溶けていく。
庭師たちは花壇の手入れを終えると、クラウスへ深々と頭を下げた。
「皇兄殿下」
「お疲れ様でございます」
クラウスは穏やかに微笑み返す。
「寒い中、ご苦労さま」
「皆のおかげで、この庭はいつも美しい」
その優しい言葉に、庭師たちは嬉しそうに顔をほころばせた。
皇城の廊下を歩けば、侍女や近衛兵たちも自然と頭を下げる。
「殿下、おはようございます」
「今日も良い一日になりますように」
「ありがとう」
クラウスは誰に対しても分け隔てなく接した。
その姿は、幼い頃から何一つ変わっていない。
やがて彼は、大きな窓の前で足を止めた。
窓の向こうには皇城の中庭が広がり、その先には大謁見の間へと続く荘厳な建物が見える。
そして、その最奥には皇帝だけが座ることを許された玉座があった。
クラウスは静かに目を細める。
幼い頃。
父である先帝ヴィルヘルム四世の背中を見つめながら、自分もいつかあの玉座へ座るものだと信じて疑わなかった。
帝王学を学び。
剣術を学び。
政治を学び。
国を導くためだけに歩み続けてきた。
それが第一皇子として生まれた、自分の使命なのだと。
しかし、運命は変わった。
父は病に倒れ。
白竜皇オルドは、弟エルンストを皇帝に選んだ。
その日を境に、クラウスの進むはずだった未来は大きく変わった。
それでも、後悔はしていない。
エルンストは誰よりも民を想い、国を導いている。
魔導暖房器具によって帝国は豊かになり、多くの命が救われた。
あれは間違いなく、弟だからこそ成し遂げられた偉業だった。
クラウスは小さく微笑む。
「立派になったな、エルンスト」
その声には、兄としての誇りが込められていた。
だが、その微笑みは長くは続かなかった。
ふと、胸の奥が小さく痛む。
誰にも気付かれないほどの、ほんのわずかな痛み。
クラウスは窓ガラスへ映る自分の姿を見つめた。
(……もし)
(父上が病に倒れなければ)
(もし白竜皇様の選定が違っていたなら)
(あの玉座へ座っていたのは、私だったのだろうか)
その想いは、すぐに胸の奥へ押し込める。
「……いや」
「今さら考えても仕方のないことだ」
自嘲するように小さく笑い、静かに首を振った。
弟を妬んでいるわけではない。
皇帝になりたいと願っているわけでもない。
それでも、人生を懸けて目指してきた場所を失った者だけが抱える、小さな未練だけは消えることがなかった。
その感情は憎しみではない。
怒りでもない。
誰の心にも生まれ得る、ごく人間らしい心の揺らぎ。
だからこそ、クラウス自身も、その想いを誰にも打ち明けることはなかった。
兄として。
皇族として。
帝国を愛する一人の人間として。
その想いは胸の奥深くへ静かにしまい込み、今日も変わらぬ穏やかな笑みを浮かべ続ける。
しかし、その小さな心の隙を、遠くから静かに見つめる者たちがいたことを――。
この時のクラウスは、まだ知る由もなかった。




