第107話 貴族たちの焦り
その夜。
帝都の一角に建つ、とある名門貴族の屋敷。
窓という窓には厚いカーテンが下ろされ、外へ灯りが漏れぬよう厳重に閉ざされていた。
広い会議室には十数名の貴族たちが集まり、重苦しい空気が漂っている。
机の上には、帝国各地から集められた報告書が山のように積み上げられていた。
誰もが険しい表情を浮かべ、無言のまま書類へ目を通している。
やがて、一人の老貴族が重々しく口を開いた。
「……ここ数か月で、我らの商会の利益は三割以上減少した」
別の貴族も苦々しく頷く。
「薪の売り上げは激減した」
「暖炉用器具の注文も、ほとんど来なくなった」
「暖房用魔導具を扱っていた工房も、次々と閉鎖へ追い込まれている」
室内には重苦しい沈黙が流れた。
原因は、誰もが理解していた。
魔導暖房器具。
皇帝エルンストと未来の皇妃ミア、そして宮廷魔法使いクロエが完成させた、新たな魔導具である。
それは多くの民を救い、帝国へ計り知れない恩恵をもたらした。
しかし同時に、古くから築かれてきた利権を根底から覆した。
「問題は利益だけではない」
一人の中年貴族が静かに言った。
「民は完全に皇帝陛下へ心を寄せ始めている」
「以前は『冷徹皇帝』と恐れられていたお方が、今では『民を救う名君』とまで呼ばれている」
「皇帝陛下の一声で民が動く」
「このままでは、貴族の影響力は失われてしまう」
その言葉に、多くの者が無言で頷いた。
皇帝の権威が強まること自体は悪いことではない。
だが、民と皇帝の結び付きが強くなればなるほど、その間に立つ貴族の存在意義は薄れていく。
彼らが恐れていたのは、まさにそこだった。
「このまま指をくわえて見ているわけにはいかぬ」
老貴族が低い声で言う。
「だが、皇帝陛下へ正面から逆らえば、民が敵に回る」
「愚策だな」
「ならば、どうする」
誰かがそう問いかけると、部屋は再び静まり返った。
やがて、一人の男がゆっくりと口元を歪める。
「幸い……帝国には、もうお一人おられるではないか」
その言葉に、全員の視線が男へ集まった。
「クラウス皇兄殿下」
その名が告げられた瞬間、部屋の空気がわずかに張り詰める。
皇帝陛下の実兄。
民からの信頼も厚く、温厚篤実と名高い人格者。
皇族の長兄として、多くの者から敬愛される存在だった。
「もちろん、クラウス皇兄殿下が陛下へ反旗を翻されるとは思っておらぬ」
「だが……」
男は意味深な笑みを浮かべる。
「人の心には、誰しも迷いがあるものだ」
「その迷いに、少しだけ耳を貸していただければよい」
誰も反論しなかった。
静かな沈黙が、その場にいる全員の意思を物語っていた。
彼らの狙いは、帝国を変えることではない。
失われつつある自らの権勢と利権を取り戻すこと。
そのためなら、人の心の隙さえ利用する。
それが彼らの選んだ道だった。
こうして保守貴族たちは、水面下で静かに動き始める。
その標的となったのは、誰からも慕われる心優しきクラウス皇兄殿下。
まだ誰も知らない。
この密かな会合こそが、やがて帝国全土を揺るがす巨大な陰謀の始まりとなることを。
そして、その陰謀は静かに、一人の皇兄の心へと忍び寄ろうとしていたのである。




