第106話 平和の光
魔導暖房器具が帝国へ普及してから数か月。
ヴァイスラント帝国は、かつてない繁栄を迎えていた。
帝都の大通りには人々の笑顔があふれ、市場は朝早くから活気に満ちている。
商人たちの威勢の良い呼び声。
行き交う人々の楽しげな話し声。
雪の中を元気いっぱいに駆け回る子どもたちの笑い声。
そのどれもが、帝国に訪れた平和を物語っていた。
冬の朝。
かつてなら白い息を吐きながら肩をすぼめ、寒さに耐えるように歩いていた人々も、今では穏やかな表情で街を行き交っている。
「今年は本当に暖かいね」
「夜もぐっすり眠れるようになったよ」
「子どもが風邪をひかなくなったんだ」
そんな喜びの声が、街のあちらこちらから聞こえてきた。
診療所では、医師が帳簿を見つめながら驚いたように目を丸くする。
「今年は寒さによる病人が随分少ないな」
「暖房器具のおかげでしょう」
「高熱を出す子どもも減りました」
暖かな部屋で十分な休息を取れるようになったことで、人々の健康にも確かな変化が現れ始めていた。
一方、帝都の学校では、子どもたちが元気いっぱいに雪遊びを楽しんでいた。
「先生、見てください!」
頬を真っ赤にしながら駆け寄る子どもたち。
暖かな教室へ戻ると、冷え切った手を温めながら笑顔で机へ向かう。
「昔は寒くて手がかじかみ、文字を書くのも一苦労だったのにな」
教師は目を細め、感慨深げに微笑んだ。
人々の暮らしは、少しずつ。
しかし確かに変わり始めていた。
その頃。
ヴァイスラント皇城、執務室。
宰相は山積みになった報告書を抱え、静かに一礼する。
「皇帝陛下」
「各地より報告が届いております」
エルンストは書類を受け取り、一枚ずつ丁寧に目を通した。
寒冷地での設置状況。
診療所からの報告。
宿屋や学校への導入実績。
どの報告書にも、人々の暮らしが豊かになったことが記されている。
その隣では、ミアも嬉しそうに報告書を読んでいた。
「こんなにたくさん……」
「皆さん、本当に喜んでくださっているんですね」
暖かな風に乗って、リリが部屋の中をくるりと一回転する。
『えへへ!』
『みんな笑顔だよ!』
アルも腕を組み、得意げに笑った。
『火の子たちも毎日大活躍だ!』
『帝国中をぽかぽかにしてるぞ!』
ミアは優しく微笑む。
「ありがとう」
「リリもアルも、本当に頑張ってくれましたね」
二人は照れくさそうに笑い合った。
その様子を見ていたクロエも目を細める。
「これほど早く成果が現れるとはのう」
「人々の笑顔こそ、何よりの研究成果じゃ」
エルンストも静かに頷いた。
「ああ」
「民の暮らしが豊かになる」
「それが、この研究の目的だった」
穏やかな空気が執務室を包む。
魔導暖房器具の普及によって、人々の暮らしは大きく変わった。
そして同時に、冷徹皇帝と恐れられていたエルンストへの評価も、大きく変わり始めていた。
「民のために尽くす皇帝陛下」
「本当はお優しいお方だった」
「これほど民を想ってくださる皇帝は、歴代でも稀ではないか」
そんな声は帝国中へ広まり、民衆の支持は日に日に高まっていく。
誰もが、ヴァイスラント帝国の未来は明るいものだと信じていた。
しかし――。
皇城の高い塔から、その賑わう帝都を静かに見下ろす者たちがいた。
「……民は完全に皇帝へ心を寄せ始めたな」
一人の老貴族が低く呟く。
「暖房器具の普及によって、我らが扱ってきた薪や既存の暖房用魔導具は売れなくなった」
「関連する商会も次々と利益を失っている」
別の男が苦々しく続けた。
「皇帝は民を救った」
「だが、その代償として我らの利権は崩れ始めた」
「このままでは、利益だけではない」
「貴族という存在そのものの影響力まで失われる」
彼らは、これまで冬の暖房事業や既存の魔導具によって莫大な富を築いてきた保守貴族たちだった。
新たな発明は民を救った。
だが同時に、古い時代の利権を打ち砕いたのである。
人々が希望という光を手に入れたその時。
その光を快く思わない者たちもまた、静かに動き始めていた。
帝国に訪れた平和。
その裏側で、新たな陰謀の歯車が、ゆっくりと回り始めるのであった。




