第97話 家族の温もり
魔導暖房器具が完成した翌日。
エルンスト、ミア、クロエの三人は、完成した第一号機を抱え、皇太妃クラリッサの離宮を訪れていた。
応接室。
机の上へ置かれた魔導暖房器具を、クラリッサは興味深そうに見つめる。
「これが、あなたたちが研究していた魔導具なのですね」
クロエは恭しく一礼した。
「はい、皇太妃陛下」
「世界で初めて、人の手によって生み出された魔導暖房器具にございます」
クラリッサは驚いたように目を見開く。
「暖房……」
「魔法で部屋を暖めるのですか?」
エルンストは静かに頷いた。
「火の魔法石が熱を生み出し、風の魔法石がその熱を部屋全体へ運びます」
「魔法石に蓄えられた魔力によって動作するため、魔法が使えない者でも扱うことができます」
「どうぞ、お試しください」
クラリッサは静かに頷いた。
クロエが起動装置へそっと触れる。
次の瞬間――。
紅く輝く火の魔法石。
翠色に輝く風の魔法石。
二つの光が静かに共鳴し始めた。
ふわり。
柔らかな暖気が、部屋いっぱいへゆっくりと広がっていく。
冬とは思えない優しい温もり。
身体を包み込むその暖かさは、まるで凍りついた心まで溶かしていくようだった。
その瞬間。
クラリッサの身体が、小さく震えた。
「……あ」
忘れるはずがない。
この温もり。
若き日の冬。
皇帝ヴィルヘルム四世が、後ろから優しく肩を抱いてくれた夜。
幼いジークフリートを膝へ乗せ、家族三人で暖炉を囲み、他愛もない話をしながら笑い合った日々。
何気なく過ぎていった、ありふれた幸せ。
その温もりが、昨日のことのように鮮やかによみがえる。
しかし――。
ヴィルヘルム四世は病に倒れ。
ジークフリートは戦場で命を落とした。
最愛の夫。
最愛の息子。
二人を失ったあの日から、クラリッサの心は深い悲しみの中で凍り付いたままだった。
「ヴィルヘルム様……」
「ジークフリート……」
ぽろり、と涙が零れる。
一粒。
二粒。
やがて堰を切ったように涙があふれ出した。
長い年月、胸の奥へ押し込め続けてきた悲しみ。
誰にも見せることのできなかった弱さ。
そのすべてが涙となって流れ落ちていく。
部屋には静かな嗚咽だけが響いていた。
誰も声を掛けない。
ただ静かに、その涙が止まるのを待っていた。
やがてクラリッサは涙を拭い、ゆっくりと立ち上がる。
そしてミアの前まで歩み寄ると、深々と頭を下げた。
「ミアさん」
「まず、お詫びをさせてください」
ミアは慌てて首を振る。
「皇太妃陛下、おやめください」
「いいえ」
クラリッサは静かに首を横へ振った。
「私は、あなたへあまりにも冷たく接してしまいました」
「夫ヴィルヘルム様を失い……ジークフリートを失ってからというもの、私はずっと心に余裕を失っていたのです」
「毎日が恐ろしくてなりませんでした」
「クラウスまで失ってしまうのではないか」
「皇帝となったエルンストまで失ってしまうのではないか」
「そんな恐怖ばかりを抱えながら、生きていました」
震える声で言葉を続ける。
「そして……」
「エルンストがあなたを心から大切に想っていることが分かるほど、嬉しい反面、とても寂しかったのです」
「いつか、あの子が私の手を離れ、あなたと新しい家庭を築いていく」
「本来なら母として喜ぶべきことなのに、私はその現実を受け入れることができませんでした」
「あなたにエルンストを取られてしまうような気がして……そんな身勝手な思いで、あなたを遠ざけてしまったのです」
再び涙が頬を伝う。
「母親として、本当に情けないことでした」
「申し訳ありませんでした」
ミアの瞳にも涙が浮かぶ。
「皇太妃陛下……」
クラリッサはゆっくりと顔を上げ、穏やかな笑みを浮かべた。
「実は……」
「エルンストから、あなたがランベルト家でどのような扱いを受けてきたのかを聞きました」
「婚約者に見放され、ご家族からも十分な愛情を受けられず、それでも誰も恨まず、人のために尽くしてきたことを……」
「それを聞いて、私はあなたのことを調べさせてもらったのです」
一呼吸置き、優しい眼差しをミアへ向ける。
「そして思いました」
「あなたは本来、ヴァイスラント家へ生まれてくるはずだった娘ではないかと」
「ほんの少し道を違え、他所のお家で育っただけ」
「今ようやく、この家へ帰って来てくれたのですね」
クラリッサは小さく息を吸う。
「今さら、このようなお願いをする資格がないことは承知しています」
「ですが……」
「これからは、私のことを『母』と呼んでいただけませんか」
ミアは涙を拭い、優しく微笑んだ。
「はい……お母様」
その一言を聞いた瞬間。
クラリッサはミアをそっと抱き締めた。
「ありがとう……」
「帰って来てくれて、本当にありがとう」
ミアも静かにその背へ腕を回す。
「ただいま……お母様」
その光景を、エルンストは静かに見守っていた。
その表情には、これまで誰にも見せたことのない穏やかな笑みが浮かんでいる。
クロエも静かに目を細め、小さく頷いた。
ミアの肩では、リリが嬉しそうに羽を震わせる。
『よかったね』
本棚の上ではアルも満足そうに腕を組んだ。
『これで本当の家族だ』
もちろん、その姿も声もミア以外には見えない。
魔導暖房器具が暖めたのは、部屋だけではなかった。
夫と息子を失い、長い悲しみの中で凍り付いていた一人の母の心。
そして、新しい家族を迎え入れる勇気。
そのすべてを優しく溶かした温もりは、ヴァイスラント皇家に新たな家族の絆を結び、これから始まる幸せな日々を静かに照らしていく。
この日、世界初の魔導暖房器具は、人々の暮らしだけではなく、一つの家族の心までも温めたのであった。




